気づきの伝道師 藤井一規です。
なにかパフォーマンスをするとき、
何かをすることそのものに心が奪われるもの。
しかし、表面的だったり、直接的に何かを「する」ということよりも、
もっと大事なことがあると気づくことで、次のレベルに至ると言われる。
今日は、日常でも活かせる、パフォーマンスをより深めることについて考えていく。
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この記事の目次
「浄瑠璃は語らずに語れ、三味線は弾かずに弾け」
by 鶴沢道八(浄瑠璃三味線方「道八芸談」より)
浄瑠璃三味線を極めたといわれる名人の鶴沢道八は言う。
語ってなんぼのはずの浄瑠璃は語らずに。
弾いて何ぼのはずの三味線は弾かずに。
これは、どういうことなのだろうか?
<声を出す>
カラオケなどで歌いすぎて、声が出にくくなったり、喉を傷めてしまった。
そんな経験をしたことはないだろうか?
声楽を学ぶようになって、
歌うことで、喉を傷めるような歌い方には問題があることを知った。
声は声帯で生み出される。
そして、いっぱい力めば大きくなるような気がするが、
身体という共鳴箱を効果的に使えないと、無駄になってしまう。
息めば遠くまで届くかというと、
息むほど、却って遠くには届かくなってしまう。
日本語は発声学的に、美しい発声をしなくても出せてしまう言語といわれ、
美しい発声をしないままになりがち。
<望ましい発声、伝え方>
浄瑠璃でも、おそらく他の芸能でも、道を極めた人たちは、
望ましい発声、伝え方に気づいていた。
浄瑠璃では、語ろうとすれば、望ましいところから外れた発声になってしまうし、
場面を表現するのに、声色を使って表現しようとすれば、
却って伝わらなくなってしまうことを。
伝わるためには、喉ではなく、腹から声を出して、顎(あご)で音を遣うとか、
語り口で声を回すのも、喉で表面的にやるのではなく、
「□[顎]や□[顎]や、顎やがな」と言っていることは興味深い。
達人の境地は洋の東西を問わず、共通していると言える。
<三味線は弾かずに>
さて、三味線は楽器なのだから、音を出してなんぼのはず。
しかし、音を出す方ばかりに意識がいっているうちは、まだまだだという。
西洋音楽でも、楽譜でいうところの音符のところ、
音を出すところだけを意識しているだけでは不十分。
休符のところを意識して、積極的に休符を活かして表現することが
上達には必要なこととなってくる。
音のないところが意味を持ち、伝えたいことを表現するために
重要な役割を持っていることに気づきたい。
浄瑠璃であれば、三味線と語る側との呼吸、間が、とても大切だとされる。
楽器でも声でも、音楽は、「間」や息を合わせることが
単に音を出すことよりも重要だったりする。
<していないときこそ>
私たちは、表面的なことについ囚われ、
三味線は音を奏でてなんぼ、語り手は声を回してなんぼだと思ってしまいがち。
同じように、どんなことでも、なにかを「する」ことばかりに
意識が向かいがちではないだろうか?
何かと、次の何かとの「間」、「呼吸」があって、
はじめて全体が表現されることに気づいていきたい。
「間」や「呼吸」があるから、期待や変化が起きてくる。伝わってくる。
「しない」ときを活かすことが大切なのだ。