気づきの伝道師 藤井一規です。
友人とはどんな存在なのだろうか?
家族以外で一緒に楽しく過ごすような誰かのことだろうか?
今日は、友人とはどんな存在なのかについて考えていく。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/11717/
この記事の目次
「友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。正しいときにはだれだって味方になってくれる」
by マーク・トウェイン(米国の作家、小説家)
成功者になったり、有名人になったりすると、
途端に友人を名乗る人が増える、なんて話を聞くことがある。
本当の友人とは、どんな存在なのだろう?
<定義はあるのか?>
友達の定義って、あります?
親しさのレベルがあると考えるとき、
どのレベルを超えたら、友達だって言えるのだろう?
幼稚園でお友達ができた!
学校でお友達ができた!
同じ組織に属している中で、一緒に遊んだり、楽しく付き合う相手が出来てくる。
友達だっていうような気はするけれど、
それが、本当の友達かどうか?
って言われると、どうなんだろう?
という気がしてくる。
そこには明確な定義は与えられていない。
<所属が同じとき>
同じ学校や同じ職場に所属していれば、
なにかとよく顔を合わせ、親しく話をする人が現れてくる。
お互いに気持ち良く過ごすためには、
親しくなっている方が有利なのは間違いない。
しかし、卒業したり、転職や退職したりしたとき、
忘れ去ってしまうような付き合いと、いつまでも心に残る付き合いとがある。
本当の友達と言えるのは、
物理的に共に居なくなっても、
つながり続けるような付き合いの中にあるのではないだろうか?
<表層的なつきあい、深層的なつきあい>
私たちは、社会を構成していくためにも、
表層的な付き合いをする能力を持っている。
それは、ときには多数に踊らされたり、
見栄えの良さや、自分の都合や利害にあったものに
流れてしまったりすることでもある。
しかし、本当の友達なら、利害関係がなくなった状態であっても
相手のことを想ったり、困っていたらなんとかしてあげたくなったりする。
それは、もっと深層的なところで、
相手を信じることができるからだ。
<たとえ道を誤っていても>
誰しも、何らかのきっかけで、道を誤ってしまうことだってある。
行為そのものは間違っているとしても、
人間性を、お互いを大切にしようとすることは信じられる相手でいられる。
利害をはなれて何とかしようとしたりする。
そんな友達をもっていたいものだ。