気づきの伝道師 藤井一規です。
禅は、経典よりも体験を重視し、
特定の経典に頼らない、不立文字(ふりゅうもんじ)をベースとしています。
しかし、言葉はなくていいと言っているわけでもないようです。
今日は言葉と言葉を超えるものについて考えていきます。
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http://shitsumon-alacarte.com/mental/12056/
この記事の目次
「不立文字」
by 禅語
禅は書いてある経典の文字を解釈することによって、
理解していきましょう。という宗派ではない。
そこで、不立文字(ふりゅうもんじ)がその考えを代表とする言葉とされる。
しばらくこの言葉を味わっていきたい。
<文字どおり?>
私たちの日常のコミュニケーションでも、
使った文字通りの言葉の意味と、伝えたかった意味との間に
差が生まれることがある。
子どもに向かって、「バカ!」と叱ったとすれば、
「馬鹿だ」という文字通りの意味を伝えようとしたのではない可能性が高い。
子どものことを大切に思うがゆえ、愛しているがゆえに
思わず使ってしまった言葉だったりする。
子どもの方も、普段から親から愛されていることを充分わかっていれば、
「バカ!」といわれようが、文字通りの意味ではないことが理解できる。
<言葉と背景>
このように「バカ!」という言葉は、
蔑みの言葉にも、愛情あふれた言葉にもなる。
だから、どんな状況で、誰が、誰に対して、言葉を発したかによって、
同じ言葉でも全く意味が違ってくる。
そこで、禅の世界では、真理を先につかむことを重視し、
背景にあるものを取り除いて、文字だけを取り上げて解釈することを避けようとする。
真理を先に体験し、会得したうえで、言葉を味わうようにしていく。
そう、どんな言葉を遣ったかにも、意味があることに気づいておく必要がある。
<言葉の選択>
言葉には意味がある。言霊もあると言われる。
どんな言葉を遣うかで、人生が変わっていくとさえ言われる。
言葉は背景とともに理解する必要があるのだけれど、
できればストレートな、言葉通りの意味を伝えるようにしていきたい。
真意は別のところにあっても、その言葉が持つチカラが発揮されることになるからだ。
それに、背景を理解できていない人にとって、
言葉通りの意味に伝わってしまう可能性は高い。
<不立文字>
誰かの伝えてくれている言葉には、
どんな背景があるのか、真に伝えたいことは何なのか?
文字だけを追いかけていてはわからない。
深く聴き取っていく必要がある。
そして、自分が遣っていく言葉は、
自分の思いをストレートに表現するものを選択していきたい。