気づきの伝道師 藤井一規です。
あの人は善人だと聞けば、いい人なんだねと思い、
そこに別段悪いことがあるとは思わなかったりします。
しかし、オスカー・ワイルドは問題点を見出しています。
今日は、うっかりしがちな人の定義づけについて考えていきます。
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この記事の目次
「善人はこの世で多くの害をなす。彼らがなす最大の害は、人びとを善人と悪人に分けてしまうことだ」
by オスカー・ワイルド(アイルランドの詩人、作家、劇作家
よく考えてみると、善人かどうかって、決めることは簡単ではない。
それに、善人という定義づけを始めると、善人でない人たちがいることになる。
善人という言葉は、好ましいもののように感じさせつつ、
好ましくないものの存在をも生み出そうとする。
今日はオスカー・ワイルドのこの言葉をしばらく味わっていきたい。
<あなたは善人か?>
あなたは善人ですか?と聞かれて、
はい!と答えたい人もいるだろうし、
いいえ、そんなに素晴らしい人ではありません。
という人もいるだろう。
誰しも善を成そうとすることはあるだろう。
しかし、善をなすことばかりではなかったりする。
ときには自分の欲を優先することもある。
善と思っていたけれど、よく考えれば善とは呼べなかったりもする。
そうなってくると、何をもって善人と呼ぶか、がはっきりしないことになる。
善人と呼ばれる人であっても、いつも善をなすとは限らない。
<善人をつくると>
一つ一つの行為に対して、善かどうかを判断することができるかもしれない。
それでも善なる行為をした人であって、善人だとするには無理があるかもしれない。
また、善人という人がいるとすれば、
それ以外の人たちがいることになる。
悪人と呼ばれる人も登場するかもしれない。
しかし、悪人といえども悪ばかりをするわけではない。
悪人にも愛する家族がいたりするし、
自分の子どもや愛する家族のことをきっと大切にするだろう。
100%の善人がいないのと同様、
100%の悪人もいないはずなのだ。
<善人を登場させる>
しかし、私たちは「善人」を登場させるのが好きだ。
これは、「天才」と呼ばれる人を待ち望む気持ちと同じかもしれない。
本人にとっては、自分はただの努力の人であっても、
「天才」と祭り上げる人たちがいたりする。
またそんな「天才」のストーリーを聞くのを、
楽しみにしている私たちがいたりする。
「善人」にも同じようなところがあるのではないか。
「天才」とか「善人」とか、なんだか心地よい響きの言葉の向こうに
人間らしさをないがしろにしてしまう面があることに
気づいていきたいものだ。