気づきの伝道師 藤井一規です。
求める答えとか真理、というと簡単にわかるようなものではなく、奥底にあって、
ちょっと見渡しただけでわかるようなものではない、と思いがち。
今日は、答えのありかと、そこにたどり着くための秘訣について考えていきます。
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この記事の目次
「明歴々露堂々」
by 禅語
歴々と明らかで、堂々と露出している。
全ては隠れた奥底にあるのではなく、目に見えるところに明らかに表れているという。
しばらくこの言葉を味わっていきたい。
<真理は神秘的か>
秋になると、夕日の色を吸い取ったような
オレンジの柿の実が輝いていたりする。
木の葉が散ると、そこに美しい実があることが明らかになる。
柿の実が求める答えや真実だとすると、
木の葉が散らないと、柿の実の存在に気づくことができなかったのだろうか?
柿の木をよく観察してみる。
すると、5月にはすでに、青い実がいっぱいあることがわかる。
秋になって、その実が突如として現れてくるわけではなく、
春の時点からすでに存在していた。
すでにあることに気づいていないだけのことなのだ。
<心の在り様>
たとえば、私たちは抱いた感情を隠そうとすることがある。
表面上は、笑顔を取り繕って見せたりすることがある。
しかし、心からの笑顔と、取り繕った笑顔とには、どうしても違いが生まれてくる。
もちろん、造った笑顔であっても、
笑顔が生み出す気持ちが湧いてくるのだけれど、
本当の気持ちとのギャップがあれば、
満面の笑みとは、どこか微妙にちがったりするもの。
心の在り様が、表情や姿勢、微妙な筋肉の緊張や、血管の拡張など
どこか見えるところに現れているものなのだ。
それに気づくことができるかどうかだけ。
<全てはすでに表れている>
毎日歩いている道。
いつものペースより、ずっとゆっくり、
3倍くらい時間をかけて歩いてみる。
すると、こんなところにお花が。
あ、こんなお店があったんだ。
この看板おもしろい。。。
何か新しいことに気づいたりする。
私たちは目に入ったり、耳に入ったり、身体で感じ取ったりすること
全てを受け取ってはいる、
しかし、脳はサボるのが大好き。
重要ではないと判断したら、流してしまうようにできている。
<自分自身も変化する>
また、同じ本や、同じ一節を何度も何度も読んでいると、
新たに気づくことがあったりする。
ときに何年か何十年か経ってから読んでみると、
そのとき、そのときで捉え方が違ったりする。
そこにあるものは全く同じはずなのに、こころに響くところが違ったりする。
全てはそこにあったはず。
今できる全力で受け取ってみる。そして、受け取ったものを表現してみる。
それが今の捉え方。
ただ、まだほかの可能性があることにも気づいておきたい。
求める答えは、気づけていないだけですでにそこにある。
少なくとも、ヒントはきっとある。
見方をちょっと変えれば良いだけだったりするのだ。