気づきの伝道師 藤井一規です。
あなたは誰かを愛していますか?
はい、と答える人のなかで、相手のことを愛していないひとが結構多い、と瀬戸内寂聴さんは言います。
今日は、愛することについて考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/12795/
この記事の目次
「人は、人を愛していると思い込み、実は自分自身だけしか愛していない場合が多い。」
by 瀬戸内寂聴(尼僧、小説家)
愛を抱くことって素敵なこと。
愛を全身で感じていたら、幸福感が生まれ、健康にもになれるという。
しかし、誰かに向けられるはずの愛が、実は自分自身にしか向けられていないことがあるという。
しばらく、考えていきたい。
<誰のため?>
あなたは愛していると思っているかもしれないけれど、
相手を愛しているのではなく、自分を愛しているだけだ。
なんて指摘されたら、ちょっとムッとして、そんなことないよ!
って言い返したくなるかもしれない。
しかし、知らず知らずのうちに、見返りを期待している自分がいたりする。
また、自分が愛だと思っているものを押し付けるばかりで、
相手のことを考えていないことに気づかなかったりすることがあるようだ。
<見返り期待になっていないか?>
例えば、あなたが、自分の愛の気持ちを表現したとき、、、
プレゼントでもいいし、なにかを相手のためにするのでもいい。
結果、相手が不快な気持ちを表したとしたら
あなたはどんな反応をするだろうか?
もし、相手に対してマイナスの感情を持ったとしたら、
見返りを期待していたことになる。
相手のためにと言いながら、ときに私たちは
見返りを前提にしていたりすることがある。
愛は与えていくもので、相手から還ってくることを期待するものは違うかもしれない。
<押し付けになっていないか?>
愛は、相手のために行うこと。
ときには、相手が好意的な反応を示さなくても、与えていく。
もちろん、相手を甘やかすようなことだけが愛ではない。
必要であれば、厳しいことを伝えたりすることも愛。
ただ、気をつけなくなくてはならないことがある。
与えるものだし、相手のために良かれと思ってするのだが、
その結果として、相手の人生にとってためにならないことがあるのだ。
たとえば、安心・安全にさせようと思うあまりに、
危険には一切近づかせない。というのはどうだろうか?
たとえば危険だからと刃物に一切触れさせない、というのは
相手のためにならないかもしれない。
生きていくうえで、刃物の扱いができることで得られることもたくさんあるからだ。
たとえば、料理はできた方が良いかもしれない。
知らない人には一切近づくな。というのもどうだろうか?
人との出会いによって、人はその世界を拡げていくもの。。。
なので、愛情だと思ってしていることが、
実は相手の自由を、可能性を奪っていないか考えてみる価値がある。
単に、相手を自分の思い通りにしようとしているだけなのかもしれないのだ。
<真剣に向き合い、成長を信じること>
愛は、相手のために行うこと。
愛するその人が、その人らしく、生き生きとしていくことができるように。
ときには真剣に叱ったり、ケンカしたりすることがあったっていい。
もちろん、いつだって相手の成長を信じ、見守っていく。
どんな状態であっても、受け留めていく。
愛は自己満足とは違うところにあるのだ。