気づきの伝道師 藤井一規です。
どうして私のことをわかってもらえないのだろう?
そう思うことがあるかもしれません。
そんなとき、どうしていけばよいのでしょう?
今日は、論語の言葉から考えていきます。
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この記事の目次
「子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり」
by 論語
誰もが自分のことを認めて欲しいもの。
しかし、なかなか認めてはもらえなかったりする。
そんなとき、どうしていけば良いのだろうか?
今日は、論語の言葉をもとに考えていく。
<わかってもらいたい>
今日のひとことは、
「周りの人が自分のことをわかってくれないと嘆くのではなく、
自分が周りの人をよくわかっていないことに心を配ったほうがよい」
という意味だ。
誰しも、自分のことを分かってもらいたいもの。
では、自分は相手のことをわかろうとしているだろうか?
自分のことはわかってもらいたい、となれば、
自分の方からも相手のことを、分かろうとすることが大切になるよと言っている。
<わかってもらいたいとき>
わかってもらいたい。という意識に囚われているときは、
周囲のことが見えなくなっているかもしれません。
自分はこんなに頑張っているのに。
自分は大変なのに。
そんな思いを抱えていると、
わかってくれない相手のことを、つい否定してしまったりしがち。
自分のことを否定してくる人がいたら、その相手を理解しようとするよりは、
反発心が起きてしまうもの。
だから、わかってもらいたいときこそ、相手の立場に立って、
相手のことを理解してみようとしてみたい。
すると相手がどんな状況にあって、何を楽しみにし、何に困っているのか、
わかっていなかったことに気づいていく。
<理解を示してくれる相手になら>
人は、自分のことに理解を示してくれる人に心を開いていきやすいもの。
相手もまた、理解されたいと望んでいる。
そう、自分のことを分かってもらおうとするならば、
わからせようと、強引な方法をとるよりは、
先に相手のことを分かっていったほうが効果的だったりする。
無理に相手を動かそうとすれば、抵抗も大きくなってしまう。
相手の望みや喜び、嫌っていることを理解し、
理解していることを示していけば、相手の心も開いていく。
心を開いて付き合えれば、自分のことも理解してもらいやすくなっていく。