気づきの伝道師 藤井一規です。
人生において、奇跡を願うことってあるかもしれません。
願っても良いが、頼ってはいけないのが奇跡だと言われることがあります。
それはどういうことなのか?しばらく考えていきます。
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この記事の目次
「奇跡を願ってもよい。しかし、奇跡を頼ってはならない」
by ユダヤの格言
あきらめずに奇跡を手に入れる人たちがいる。
それは奇跡が起きるのを頼っているのとは違いがあるという。
もう少し考えていく。
<奇跡>
奇跡の生還を果たしたっていう人の話を聞くことがある。
共通しているのは、
もはや絶体絶命の状況に追い込まれていても、
「もっと生きたい!」という気持ちを持ち続けていたりすることだ。
「まだまだ生きるんだ!」という気持ちを強く持っていた人が
奇跡をモノにしている。
生き残ろうという意思をしっかり持っていさえすれば生き残れる、
というわけではないかもしれないけれど、持っていた人が生き残っている。
もし、生き残るということが普通では起きるはずがない
と思っていたら、実現しなかったかもしれない。
<奇跡とは>
周りからみて、起きるはずがないことが起きる。
これを奇跡と呼んだりするが、
どのようにして起きるかではなく、
結果を明確に、強くイメージできている場合がほとんどのようだ。
実は、奇跡を体験した人たちにとっては、
奇跡ではなく、起きるはずのこと、と捉えていたりする。
起きるべくして起きているものと思っているのだ。
<奇跡に頼っても>
このことは、まず起きるはずがないと思っている奇跡に頼っても、
実現する可能性は大変低いことを示している。
起きるはずがないと思っている段階で、
起きることを否定してしまっている。
どのようにして奇跡が起きるか、という考え方をすると、
え、そんな可能性まずないよね。。。
という考えに囚われがちになる。
奇跡に頼ろうとしてもうまくいかなかったりするのだ。
<起きる可能性があることが起きる>
どんなに可能性が低くとも、
起きる可能性があることが起きる。
起きるはずのないと思っていることを、実現させたいと思っても
矛盾が生じて、起きることを邪魔してしまったりする。
シンプルに起きるはずだと思っていることは、起きたりする。
私たちがこの命を授かったのも、ものすごい確率の低い中で起きていること。
しかし、命ある私たちにとって、確率が低かったことは意識できない。
起きるべくして起きた、奇跡をまとって生まれてきている。
奇跡を友としていることに気づくのも良いかもしれない。