気づきの伝道師 藤井一規です。
どんなことを言うか、だけで人柄を見ずに採用すると、
期待した結果は得られなかったりする。
また人柄が悪いからといって、そのいうことを全て否定してしまうのも考えもの。
だれが言ったか、何を言ったかについて、どのように捉えていけばよいかに注目していきます。
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この記事の目次
「君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず」
by 孔子(中国 春秋時代の思想家「論語」より)
くんしは、げんをもって、ひとをあげず、ひとをもって、げんをはいせず。
何を言ったかだけでその人を判断しないし、
言うことが正しければ、誰が言ったかを問わずにきちんと扱うようにしていきたい。
さらに考えていきたい。
<美辞麗句を並べても>
耳ざわりの良いことを言う人がいたりする。
しかし、言葉ばかりで、実行が伴っていないような人を用いたとしたら、
成果を期待することはできない。
「改革」「改革」と言いながら、官僚に「自分たちで考えなさい」
というだけになっている政治家がいたりする。
官僚が変化を嫌う傾向があるのは、誰もが知るようなところ。
口では「改革」をしているようには装っているし、
言われた官僚も、改革をしたかのごとく振る舞うかもしれないが、
おそらく望ましい変化は期待できないだろう。
<どんな人の発言でも>
これに対して、あんなやつ、と思っているような人の発言は、
どれほど正しかったり、考慮すべき内容だったとしても、
軽く扱われてしまいがちだ。
私たちは、何を言ったかよりも、誰が言ったか
の方を重要視してしまいがち。
発言した人のことをどう思っているかが、
その発言への価値のつけ方が違ってきたりするものだ。
特に、自分の耳が痛くなるようなことを言われたときに強く起こりがち。
発言者が誰かということと、発言の中身は切り離して、
冷静に扱う必要があるものだ。
<目指す自分>
自分を振り返ってみて、
言っていることと、やっていることが一致しているか、
冷静に見直してみたい。
実をともなったものになっているか、
上っ面だけ、その場限りの発言になっていないか、
確認しておきたい。
ひとが発言者と発言とを結び付けて考えるのだとすれば、
自分の発言がどう扱われやすくなっているかは、
信頼を置かれているかどうかのひとつの表れとなってくる。
信頼される人になることを目指して、いきたいものだし、
人の言うことを扱うときは、落ち着いて意味するところを見極めていきたい。