気づきの伝道師 藤井一規です。
辛い状況や障害を抱えることになったら、
なんて悲惨なことだ。と考えるかもしれない。
しかしそんな状況でも明るく生きている人たちもいる。
どこに違いがあるのだろう?
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/14807/
この記事の目次
「盲目であることが悲惨なのではない。盲目に耐えられないことが悲惨なのだ」
by ジョン・ミルトン(英の詩人、共和派の運動家)
いかなる状態になろうとも、その状態はひとつの事実だ。
その事実をどう受け止めるかで、
どんな意味を持つかは変わってくる。
もう少し掘り下げていく。
<不幸とは>
何を不幸と捉えるのか。
それは人によって、まったく違うもの。
ブータン王国の幸福度が高いことに注目が集まったことがあるが、
収入は低く、貧しい暮らしをしているといってもいい。
それでも、国民の多数は幸福だと答えている。
なぜなのだろう?
たとえば、病や事故に巻き込まれて、視力を失ったとしたら、
不幸だって感じるかもしれない。
確かに、視力がある人と比べたら、
不幸と感じるのかもしれない。
どうしてこんなことに!と、
不運を恨みたくなるかもしれない。
しかし、同時に命を失った人がいたとしたら、
盲目になっただけで済んで幸せだった。
と言えるかもしれない。
盲目であっても、生き生きとしている人はたくさんいる。
そう、不幸かどうかは、自分が決めていることなのだ。
<耐えられないと思うかどうか>
ヘレン・ケラーは視覚と聴覚の重複障害を持っていたが、
「自分は明るい。けれども、世の中は暗い」と言っている。
障害をもっていることを不幸だと捉え、
不公平に捉え、不満に思い続けていれば、悲惨なことになっていく。
しかし、その状況を受け留め、
できること、得られることを楽しでいくことができれば、
不幸だったり、悲惨のことにはなっていかない。
<事実を受け留めよう>
まずは、現実にある事実を、あるはずがないものだと
拒絶していては、辛くなるだけ。
事実は受け留めていく必要があるものだ。
ないことにはできないものは、
あるがままに受け留めていく必要があるのだ。
受け留めないで済むように目をそらし、耳をふさぎ、
考えないようにしても、そこにあるものは繰り返し迫ってくる。
事実は事実として扱っていけばいい。
事実には幸福も不幸もない。
<笑顔の時間>
事実を受け留められたあとは、
冷静に扱えるようにしていきたい。
事実を重く、苦しいものとして受け留めていたら、
大変な状況のままだ。
事実を踏まえて、そこから何ができるのか?
どんな楽しみがあるか?どんなうれしいことがあるか?
考えていきたい。
そう、笑顔になれる時間をつくれるようにしたい。
きっと何かあるはず。できるはず。
そうしているうちに、状況の受け留めは変わっていくに違いない。