気づきの伝道師 藤井一規です。
確実に存在するものって、何でしょう?
全ては変化し、バーチャルリアリティなど、
現実には存在しないが現実感を持っているものも身近になってきてきます。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/15607/
「我思う、ゆえに我あり」
by ルネ・デカルト(フランス生まれの哲学者、数学者)
哲学の言葉で、最も知られている言葉のひとつ。
もうすこし、掘り下げていきたい。
<絶対的な存在>
目の前に、とっても美味しそうなステーキがあるとする。
程よくついた焼き色、湯気、美味しそうな香り。。。
しかし、触れることができないとしたら、
リアルに投影された映像、音声や香りなどをつかって、
そこにあるかの如く表現されたものかもしれない。
どれほどリアルに感じられても、
確実ものだとは言えない。
日本のサンプル食品の技術はとても優れていると言われるが、
作り物から湯気や香りが立つようにしているのかもしれない。
<知覚の差>
誰かと一緒に同じ場所にいて同じ方向を見ているとしても、
同じ景色を見ていると証明することはできない。
いくら言葉で説明しても、
二人の間で、言葉の定義が同一だと示すことも困難。
色ひとつにとっても、何を青いというか、
人によって違ってくる。
どこに意識が向かうかも、人によって違う。
こうして考えていくと、確実に存在していると示すことができるものは
ほとんどないことに気が付く。
存在するように感じられるけれど、
本当に存在するか、というと明確に示すことができない。
<自分の存在>
デカルトは、こうしたことを考えている
「自分」が存在していることは確実だ、と気づく。
これは本物だろうか?と考えていることを
否定することはできない。
何もかもが疑わしくても、疑っている自分は存在している。
これを第一の原理として捉えた。
自分は何者かはよくわからなくても、
ここにいることは間違いない。
<考えることの価値>
私たちは、何気なく日々を、時間を過ごしてしまうこともできる。
しかし、何かに意識を向け、考えることもできる。
望ましい未来のことを考え、わくわくすることもできる。
ときには嫌な現実から抜ける方法を、
答えがでないまま、ぐるぐると悩みの迷路にはまってしまうこともある。
ただ、考えることができるって、素晴らしい。
悩みの状態から抜ける方法はわからなくても、
悩みから抜け出した後のことを考えることはできたりする。
その先の望ましい未来も。
そして、考えている自分は、確実にここにいる。