気づきの伝道師 藤井一規です。
私たちは、自分に知覚できるものを世界だと思っています。
そのことを認めると同時に、
それ以外にも世界があることを知っておく必要もあります。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/15612/
この記事の目次
「誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる」
by アルトゥール・ショーペンハウアー(独の哲学者)
自分で知覚できないものは、
存在すると認識することは難しい。
現状と世界を広げることについて、
もうすこし、掘り下げていきたい。
<知覚できるもの>
目で見えるものは、そこに存在すると思うことができる。
ひょっとしたら、幻影の可能性もあるが、
存在することを認めることができる。
音が聞こえれば、音源があることを意識できる。
聞いたことのある音であれば、
同じようなものが存在することを認めることができる。
触覚や、嗅覚、味覚を感じられれば、
その感覚を与えるものの存在を認めることができる。
私たちは、自分が知覚できるものは、
存在すると認められる。
<世界の果て>
私たちの住んでいる世界はどのような形をしているか?
今でこそ、地球という惑星に住んでいるとわかっているが、
世界は平らで、陸地が終われば海、そしてその端は滝のように流れ落ちている
などと考えられていた時代もあった。
いまでこそ妥当だと納得できる理由のもと、
地球の姿、宇宙の姿を想像し、存在すると認めることができるが、
何の情報も与えらえずにこの世に生まれ、育っててきたとすれば、
そう簡単に納得できるとは思えない。
<私たちの限界>
手塚治虫は、『円周率とか1、2、3、というのは、地球だけの真理であって、
宇宙にはそれとは違う、まるっきり想像を絶した、知識の体系があるかもしれない。』
と言っている。
そう、私たちは、自分たちの知覚できる限りの枠の中で
世界を定めている。
今は存在を知られていないが、
想像を超えた世界が存在する可能性があるのだ。
<可能性は無限>
そう、私たちは、現在の感覚、これまでの知識や
経験をもとに世界とはこういうものだと考えている。
気づかないうちに、自ら限界を定め
制限をかけていたりする。
ちょっとした工夫を取り入れることで、
これまでの延長線をはるかに超えた、
ものすごい成果を出せる可能性もあったりする。
マンネリを感じたとき、このことを思い出していきたい。