気づきの伝道師 藤井一規です。
何かメッセージを伝えようとするとき、
その熱いメッセージを効果的に伝えるために、
事実とは違うことが表現されたりします。
コミュニケーションにおいて考えておきたい、
真実のやり取りについて、
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/15722/
この記事の目次
「詩人はつねに真実を語る嘘つきである」
by ジャン・コクトー(フランスの芸術家、詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家)
何らかの表現を通して、伝えたいことがあるとき、
事実のみを伝える方法もある。
しかし、事実だけを捉えていると、
真実を見逃してしまうことがある。
もう少し掘り下げていく。
<伝わってくること>
誰かの話を聞いて理解しようとするとき、
相手がどんな体験をしたのかは、聞き手は正確には知ることができない。
話し手の話を聞きとって、
聞き手はどんな体験だったかを想像していくことになる。
どんなことを見たり、聞いたりして、
どんな感覚が湧き上がってきたのか、どんな思いだったのか、
汲み取っていくことになる。
ものすごいなって、感じとることができたほうが、
強い刺激になる。
となると、相手に伝えたい気持ちやメッセージがあるのなら、
事実よりも盛って、大げさに表現してしまうことは
ある意味自然に起きたりする。
あなたも、話しているうちに、
つい大げさに言ってしまったりした経験が
あるかもしれない。
<虚構にある真実>
私はオペラに出演することがあるが、
観客席から見て、伝わりやすく、わかりやすくするために、
実際にはしないだろうことが行われたりする。
相手をナイフで刺そうとするのに、
わざわざナイフを見せつける必要なんてないが、
これから刺しますよと、ナイフを見せてアピールしたりする。
現実の生々しさよりも、きっとこうだろうなと、
想像しやすく作られた虚構のほうが、
伝わりやすかったりするのだ。
観客に伝わることのほうが、
事実かどうかより優先される。
これは、詩の世界でも、アートでも、
日常のコミュにケーションでも、
何かを表現して伝えようとするとき、
起きてくること。
<真実と事実>
真実は、事実とは必ずしも一致しない。
目の前で起きた事実がとんでもないことでも、
その後ろにある、思いや、気持ち、意図を知ると、
ああ、そうだったのかと、心を打たれることがある。
ただの事実より、真実を汲み取れるようにしていきたいもの。
ジャン・コクトーは嘘と表現したけれど、
真実を大切にするとき、
事実だけが全てではないと知っておきたい。