気づきの伝道師 藤井一規です。
困ったときの神頼み。
誰もがしたことがあるかもしれません。
神様や仏様に祈願することは広く行われています。
しかし、それは望ましいことではない?
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/15970/
この記事の目次
「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」
by 宮本武蔵(剣術家、兵法家、芸術家)
神仏を尊重し、敬う。
しかし、神や仏にすがるのは違うと考えた剣豪 宮本武蔵。
どういう考えなのか、学ぶところがあるのか、
もうしばらく掘り下げていく。
<神仏に祈願する>
神や仏に祈ることは多くの人がしたことがあるだろう。
叶えたいことを祈願したりすることも
広く行われていることだ。
決闘を前にした、宮本武蔵も鍛えた剣術を持ってはいたが
決闘の場、「一乗寺址下り松」に向かう途中、
「八大神社」の前で足を止めた。
勝利を祈願しようと考えたのだ。
しかし、ふと思った。
「さむらいの味方は他力ではない。
死こそ常常の味方である。
さむらいの道には、たのむ神などない」
神に頼ろうとした自分の弱さに問題があると考えた。
<神仏に頼るだけでいい?>
神や仏が、私たちにしてくれていることはあるかもしれない。
しかし、神や仏を頼って、すべてお任せして、
自分でできることがあっても何もしないで、
ただうまくいくことだけを祈願しているとしたら、、、
それはちょっと変だ。
神の存在を信じ、ひたすら祈ったら、
物理的になにかしてくれるか、というと
それは起きないと考えたほうが自然。
奇跡のようなことが起きたとしても、
特定の誰かを優遇することは、起きないと考えたほうがいい。
神や仏が、万民の、神羅万象のために存在することと矛盾してしまう。
<人事をつくす>
そう、神仏は見守っていても、
頼られたからと言っても手は出さない。
私たちにできるのは、できることを一生懸命やることだ。
やり尽くしたら、結果がどうであっても納得がいく。
神様が何かをしてくれなかったから、
仏さまが何もしてくれなかったからといって、
神仏を呪っても何の利益も生まれてこない。
自分にできること、人事を尽くすことが大事なのだ。
<神仏と自分>
もちろん、自分の思いのたけを心を込めて祈ることには意味がある。
思いを明らかにし、明確なイメージを持つこともできる。
思いには、祈りには素晴らしいエネルギーがあるのは間違いない。
ただ、単に神仏に頼ろうとするのとは違うものだ。
そして、私たちは神や仏であれば、
こんな心を持つであろう、こんな行動をするであろうと、
想像することができる。
これは神対応だって、言えるということは、
神のように素晴らしいこととは、
どんなことかを知っているってこと。
そう、私たちは自分の中に神や仏の存在を生み出すことができる。
その存在を大切にすることを意識していきたい。
そして、少しでも神や仏の心に適う自分になっていきたいもの。