気づきの伝道師 藤井一規です。
ひとは自由でありたいと思いつつも、
自由であることの怖さもあるものです。
自由について、しばらく考えていきます。
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この記事の目次
「自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない」
by 芥川龍之介(作家)
山巓は、山の頂上のこと。
高い山であればあるほど、酸素が少なくなって苦しくなっていく。
自由とは、素晴らしいことだけれども、同時に大変なものでもある。
それをわかって、どうしていけばいいものか、
もうしばらく掘り下げていく。
<自由の素晴らしさ>
自由って素晴らしい!
何をしてもいい。
嫌なことはしなくてもいい。
自分の思うとおりに生きていける。
毎朝、会社や学校に行かなくったっていい。
誰かに命令されることなんてない。
空を自由に飛び回る鳥のように、
自分の行きたいところに、何の縛りもなくいける。
自由には甘美な響きがあり、素晴らしいものでもある。
<自由の大変さ>
しかし、同時に自由は大変なものでもある。
生きていくためには、食べ物を手に入れる必要がある。
その方法は、ただ待っていれば誰かが教えてくれるわけではない。
自分で方法を見つけ、確立していかなくてはならない。
気の向くまま生きていけるとはいえ、
社会に適応する必要がある。
自由だからといって、わがまま放題でいられる、というわけではない。
自由だからこそ、その分は自分で責任をもつ事が求められる。
組織に所属して、そのルールに従っていれば、
組織が守ってくれたりする。
家族がいれば家族が、会社員であれば会社が、
個人攻撃から護ってくれたりする。
どこにいて、何をしようが自由だけれど、
待っていたら、誰かがここにいていいと言ってくれるわけでもないし、
これをすれば大丈夫、と言ってくれるわけでもない。
<自由という束縛>
また、自由でいようとするあまりに、
苦しんでしまうこともある。
もし、自由でなければならない。と考えているとしたら
それは、自由な部分を減らす、という選択肢を失おうとしていることになる。
常識的なことをするのはダメ、みたいな考え方をしてしまい、
自由であろうとして、却って自分らしさを失ってしまっている人もいたりする。
自由か、束縛か、という2択ではない。
そう、1か0かではなくて、その間がある。
高い高い空気の薄い場所から、地上、いや地下や海中まで。
<自分らしく>
他人から見て自由かどうかにこだわっているとしたら、
考え直す余地があるかもしれない。
会社に所属していても、自分のやりたいことができる可能性はある。
いや、会社だからこそできることだってある。
逆に自営業で稼いでいても、自分のしたいことができないってこともある。
形式にこだわった時点で、自由が失われているかもしれない。
どんな生き方をしても、得るものと、失うものとがある。
より自分らしく生きられる選択をしていけばいい。
どんな形であっても、自分らしく生きることができるとすれば、
それは自由だといえる。