気づきの伝道師 藤井一規です。
誰でもうまくいっているときは、
心にも余裕が生まれ、寛大になることも容易だったりします。
その人の真価は、試練のとき、トラブルに見舞われたときかもしれません。
しばらく考えていきます。
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この記事の目次
「人の真価がわかるのは喜びに包まれている瞬間ではなく、試練や論争に立ち向かうときに示す態度である」
by マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(米の牧師)
うまくいっているときは、わざわざ争う必要はなかったりする。
誰かを傷つけようと考える必要もない。
しかし、窮地に陥ったとき、
周りがどんなことになろうとお構いなしって人もいたりするし、
うまくいっているときに近い人もいたりする。
似た言葉は他にもあるが、今日はキング牧師のものから。
もうしばらく、掘り下げていく。
<人の考えが変わるとき>
さっきまで、私に同調していた人が、
ちょっと強く押してくる第3者が異なる意見を言ったとたん、
いきなりその人の意見に同調してしまう人がいたりする。
常にどちらが有利かを見定めて、
有利なほうにつこうとしていたりする。
ひとつの処世術として身につけたことなのかもしれないが、
そういう人はあまり信用されないかもしれない。
信頼して任せていたら、
いつのまにか背を向けているかもしれないからだ。
本人としては、うまく立ち回っていると考えたり、
感じたりしているかもしれないが、
逆効果になっていることがある。
<自分の考えが変わるとき>
もちろん、自分の意見であっても変わることがある。
そのまま進んだとしたら、ためにならないとわかれば、
変えることも妥当なことだ。
ただその目的が、自分の保身のためで、
周りを傷つけるものだとしたら、
ちょっと立ち止まったほうがいい。
今日の言葉にあるように、喜びに包まれているときは、
気持ちに余裕があり、周りに心を遣うこともできる。
しかしながら、自分に余裕がなくなったとき、
その言動は、自分をより守るものになっていきやすい。
もちろん、それは当たり前のことだ。
しかし、だからといって
他人を傷つけたり、貶めていくとわかれば、
そうすべきなのか、
立ち止まることができるかどうかに差が生まれてくる。
<どんな選択をするか>
何も聖人君子である必要はない。
しかし、試練の場にあるとき、どんな選択をするか、
その人となりが問われていると、気づくことができれば、
大きな違いを生み出す可能性がある。
そして、そのうえで決断したことであれば、胸を張っていけばいい。