気づきの伝道師 藤井一規です。
日本人には気配りや遠慮をする美徳があると言われます。
しかし、遠慮することはもっとできることにブレーキをかけることでもあります。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/17004/
この記事の目次
「ずうずうしさが度を越して、遠慮が不十分なところで能力が開花する」
by ゴルダ・メイア (イスラエルの政治家)
遠慮するところに美学があると言われる日本。
しかし、遠慮は、出る杭は打たれることを防止するための自己保身であったり、
いい人であることを主張していたりするもの。
もうしばらく掘り下げていく。
<遠慮の文化>
遠慮は日本の文化といわれる。
遠慮とは、遠くを慮(おもんぱか)ること。
直接的なことだけでなく、間接的な影響にも思いを巡らせることだ。
相手のことだったり、何かが起きた先の未来に尽いてのことだったりする。
私たちは、なにかをした時の直接的な影響を想像することは
それほど難しくないが、
その先の影響となると、想いが至る人もいるが
至らない人も多い。
また、自分だけが先に出ることを嫌うようなこともある。
それらは、自分を守る機能を持っている。
飛び出してしまうと、叩かれる対象となりやすい。
嫉妬されてしまうような場合もある。
<遠慮の罪>
しかし、遠慮にはマイナス面もある。
遠慮せずに実行すれば、もっともっと成長できるはずだったのに、
遠慮することで、思いっきり取り組むことができなくなってしまったりする。
心のどこかに恐れをいだいていることで、
中途半端なことしかできなかったりする。
思い切って大幅に変えたら、変えることで起きてくる不整合さを即解消できたのに、
遠慮して抑えたがために、中途半端な状態を生み出してしまったりする。
遠慮したために、譲り合いがなかなか終わらずに、
次の一歩を踏み出すのが遅れてしまったりする。
遠慮がゆえに、歩みを遅くしてしまうことはよく起きるものだ。
<ときには、思い切って>
何かを取り組めるのは、幸せなこと。
ときには思い切りやってみるほうがいい。
すると、遠慮しながらしていたときとは全く違うレベルの結果が生まれてきたりする。
自分の新たな可能性に気づいたりできたりする。
もちろん、自分だけが取り組んでいるつもりでも周りのサポートがあってのこと。
感謝の気持ちを持つことは忘れずに。
ただ、ときには思い切って取り組んでいきたい。