気づきの伝道師 藤井一規です。
こいつを懲らしめたい。
そんな思いを持ったことはないだろうか?
この懲らしめたいという思いとはどういうものなのか、
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/17031/
この記事の目次
「私はあなたに助言する。友よ、人を懲らしめたいという強い衝動を持つ者を信用するな!」
by フリードリヒ・ニーチェ(独の哲学者、古典文献学者)
懲らしめたいという思いは、
どうも危険な思いらしい。
そればなぜなのか、もうしばらく掘り下げていく。
<懲らしめるとは>
悪いことをしたやつを懲らしめたい。
そんな思いを持ったことはないだろうか?
テレビなどで、水戸黄門の御付きの格さんが、葵の御紋の入った印籠をだし、
「この紋所が目に入らぬか!」
「ははー!」
という流れで悪をやっつけるのを見るのは、
痛快だったかもしれない。
いわゆる善き行いをすることを勧め、悪事を働くものを懲らしめる、
勧善懲悪ものを日本人は好きだったりする。
しかし、懲らしめるとは、
より上位に立つ者が、より下位の者が悪を働いたときに用いる。
どこかに、相手を蔑んでいるようなところがあるのだ。
相手を対等な人としてではなく、
上から指導すべき、悪ければ矯正すべき対象だと考えていることになる。
<相手を痛めつける>
相手にダメージを与える方法は、
以前は限られていた。
相手が抵抗しないような状況になるには、
上位から命令されるような場合か、
暴力的な行為によるもので、なかなか実行するのは困難なものばかりだった。
しかし、昨今のインターネットの普及により、
誰でももっともらしい誹謗中傷をちょっとアップするだけで、
致命的なダメージを与えることができるような時代になった。
ほんの軽い気持ちでアップしたことが、
誰かの人生を左右することにつながったりする、
ある意味とても怖い時代になった。
<懲らしめたい>
誰かを懲らしめたいと思ったら、
簡単にできてしまう。
そして、もし相手が悪いと判断したことが、
自分の勘違いや、自分の知らない事実があって間違っていても、
いったんインターネットに流出した情報を
取り消すことは不可能に近い。
話題性があればあるほど、消し去ることは困難だ。
だから、誰かを懲らしめたいと考えている人には
近づきすぎないほうが賢い選択かもしれない。
今は親しい関係、友達だったり、仲間だったりしても、
何かのおりに矛先が向けられてしまう可能性がある。
心の片隅に覚えておいてもよさそうだ。