気づきの伝道師 藤井一規です。
自分の理想とする人がいると、
意欲を掻き立てられたりします。
しかし、その人を崇拝しすぎるのも
問題をはらんでいるかもしれません。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/17530/
この記事の目次
「だれかを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は得られないんだよ」
by スナフキン(ムーミンより)
尊敬する人はいていい。
憧れの人もいていい。
しかし、崇拝するとなると、ちょっと事情が違ってくる。
もうしばらく掘り下げていく。
<憧れ>
自分を成長させていくうえで、具体的な憧れの人や
尊敬する人がいると、自分のモチベーションを高めるのに役に立つ。
ただ漠然とイメージしているよりは、
具体的な存在をイメージすることで、
何を向上していけばよいか、
参考にしやすくなる。
何を努力すればよいかわかってくる。
目指すイメージを明確にすることは大切なことだ。
<崇拝>
しかしながら、崇拝となると異なってくる。
崇拝するとなると、その目標は絶対的なものとなってくる。
目指すところを実現する手段は、一つではない可能性があったとしても、
崇拝するとなると、同一であることが尊ばれ、
違うことは異端となってくる。
別の可能性を否定するようになってしまう。
たとえ、自分には向かないことであっても、
それだけが正解となり、
自分にあった別の方法があったとしても、
それは正解とはならなくなってしまう。
<自分らしく>
何を目指し、何を尊んだとしてもOKだけれども、
自分らしさを失ってしまうような制限を
自分でかけてしまっているとしたらもったいない。
崇拝する誰かと全くの同一になることが目的なのではなく、
自分らしい方法で、成長していけばいい。
崇拝しすぎると、自由ではいられなくなる。
自分に制限をかけることになってしまう。
<自由>
自分の人生、目指すところはもちつつも、
自分の自由のことも意識しておきたい。
きっかけとして、誰かのマネからはじめてもいいけれど、
それは絶対的なものではない。
答えは一つではないし、
人によって答えは違っていい。
人それぞれ、自分なりの答えを出していけばいい。
崇拝しすぎると、そのことを忘れてしまいがち。
気づかないうちに崇拝の罠に
はまってしまっているかもしれない。
一度、冷静になってみる必要がある。