気づきの伝道師 藤井一規です。
自分で何かを創り出したとしたら
それは自分のモノだと主張するのは自然なような気がします。
しかし、ひょっとしたら、ちょっと考え直す余地があるかもしれません。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/17781/
この記事の目次
「天は万物を生みて所有せず、育ててこれを支配せず」
by 老子(古代中国の哲学者)
この宇宙、あなたが全てを創り出したとしたら、
あなたは、この宇宙を自分のモノだと考えるかもしれません。
しかし、そう考えることは望ましいことなのでしょうか?
自分の子どもを自分の所有物のように扱う人がいるけれど、
それは違うと感じやすいかもしれない。
もうしばらく掘り下げていく。
<執着>
天はすべてを生み出したにもかかわらず、自分のモノにはしない。
道理のあるままになっている。
そこで育ったものを自分のモノにはしない。
私たちは、気づかないうちに多くの執着心をもってしまう。
しかし、その執着が争いごとを生み、
円滑な世代交代を妨げていたりする。
特に子育てでは、
母親は、長い時間お腹の中で育て、
苦労して生み出した子供に対して、
特別な思いを抱く。
父親にとっても、自分の子どもはやはり特別だ。
<共有の宝物>
そのあまり、自分の所有物のような扱いをしたり、
自分が正しいと思うもの以外との関りを妨げようとする。
考えてみれば、私たちが生み出したものは
どんなものであっても、自分たちだけで生み出せたわけではない。
自分が生まれてきたのは、少なくとも自分の両親のおかげだ。
その両親は、またそれぞれの良心のおかげだ。
このつながりはずっと遡っていく。。。
しかも、生まれたあと、育っていく過程では、
多くの周りの人のおかげ、育った環境、自然があった。
それは、どの世代でもあったはずで、
もはや数限りないおかげで今がある。
自分が作り出したなにかも、今までの何かがあってこそ。
今までの何かも、多くのおかげであるはずのもの。
自分だけの手柄というのは、おこがましいと言えそうだ。
<おかげで生きる>
もちろん、だからといって、すべての所有を手放すべきだとは言わない。
ただ、私たちは多くのおかげで生まれることができ、
生きていることができる。
もっとそのことを感じ、意識してもいいかもしれない。
ほとんどの争いごとは、
所有の争いがもとになっていることが多い。
おかげを意識し、感謝することで、
気づくことがきっとある。