気づきの伝道師 藤井一規です。
人には寿命がある。
しかし命が永遠ではないからこそ、
よりよく生きることができるのかもしれません。
しばらく考えていきます。
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この記事の目次
「死ぬべき時を知らない者は、生き方を知らない」
by ジョン・ラスキン(英の美術評論家、社会思想家)
死ぬべきときという言葉は、ひょっとしたら誤解を招くかもしれない。
しかし、死を意識することは生きることを意識することにつながっている。
よりよく生きるためにどう考えていくのが望ましいのか、
もうしばらく掘り下げていく。
<永遠に生きるとしたら>
もし、永遠に生きることが可能だとしたら、
どんな生き方をするだろう?
多くの歴史上の人物が永遠の命を求めていたことが知られている。
ところが、多くの映画や物語なとで、
永遠の命を持つことは、苦しいことであり、
死によって解放されることが描かれてきた。
だから、死があるということは、
望ましいのか、そうではないのか?
よくわからなくなったりする。
しかし、永遠に命があるとわかっていたら、
今を懸命に生きる必要がないように思えてくる。
何としてもやろう!というよりは、
そのうちやればいいさ。になっていきがち。
命に限りがあるからこそ、
生きている間を素晴らしいものにしたくなる。
<信長>
織田信長は、幸若舞(こうわかまい)「敦盛」を好んだと言われている。
人間五十年・・・で始まる部分がよく取り上げられるが、
50という数字に囚われるよりは、
天の時間に比べれば、人の一生はほんの一瞬だ、
ということに意識を向けようとしていると捉えたほうがよさそうだ。
一瞬でしかないからこそ、
何を成すかを真剣に考える。
永遠に命があるなら、呆けていても
気にならないかもしれないが
そうではない。
<いかに生きるか>
死すべきときとは、死に適したときというより、
死は来たるべきものと捉えたほうがいいかもしれない。
死はやってくるものと意識している人のほうが、
よりよく生きようとする。
生きられる時間は、人によって異なるかもしれない。
しかし、その時間を濃密なものにもできるし、
ただぼーっと漫然と過ごすこともできる。
選ぶのは自分自身だけれど、
死を意識する機会を持つことは大切なことかもしれない。
<生きることを意識する機会>
近隣との関係が希薄な都会で暮らしていたりすると、
死を意識する機会が身近な親戚などに限られ、減っているように思われる。
自分が重い病気になったり、高齢になったりしてから
初めて死を意識するよりは、
元気なうちに命について、死について考える機会を持つことは
生きることを教えてくれる。