気づきの伝道師 藤井一規です。
以前は、死後になってから有名になる芸術家は多かった。
ゴッホもその一人。
芸術家は、他人と違うことをしながらも、
その作品が多くの人たちに受け入れられる必要があったりする。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/17866/
この記事の目次
「私はいつも、まだ自分ができないことをする。そのやり方を学ぶために」
by フィンセント・ファン・ゴッホ(蘭出身の画家)
できることだけをしていたら、その先の成長をしていくことができなくなってしまう。
できないからこそ、する。
できるやり方を学ぶために。
もっと意識してもいいかもしれない。
もうしばらく掘り下げていく。
<こだわり>
フィンセントは牧師の息子に生まれたが、伯父のはからいで、
伯父の経営する画商の社員として働きだす。
しかし、伯父との関係はあまりうまくいっていなかったらしい。
また恋に破れつづけるうちに、キリスト教への興味、
聖職者への思いを強めていったらしい。
父は反対したそうだ。
オランダ王立大学の神学部の受験科目は多く、合格するにはものすごく大変だったからだ。
実際に、なかなか勉学は進まず、次第に精神的に追い詰められていき、
自罰的な行為に走るようになっていく。
勉学からは離れていったが、聖職者への気持ちをあきらめず、
貧しい人たちへの伝道師となる伝道師学校にいくようになる。
熱意が伝わって、試用期間を与えられることになったものの、
自罰的になることを伝えようとした彼は
伝道師になることも認められなかった。
ここまでは社会的には失敗者といってもいい。
<画家として>
親からも厄介者扱いされてしまうようになったファン・ゴッホ。
どうやら適度な人間関係を結ぶことや
コミュニケーションをとることは苦手だったようだ。
絵を学びたいというファン・ゴッホに、
オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴは
当初は親身な世話をしていたが、
次第によそよそしくなり、
最後には手紙を書いても返事もされなくなってしまったという。
<人の特徴を活かす場>
ファン・ゴッホは絵で苦しいながらも何とか生活できるようになるが、
そこにはたゆまぬ探究心があった。
聖職者になろうとしたとき、勉学の能力で挫折しても伝道師になろうとし、
熱意で試用期間までたどり着いたときにも、
ここぞと思ったところには、エネルギーを注ぎ込むことができるという、
彼の特徴が表れている。
その特徴を認める人がいて、うまく伸ばすことができていたら、
フィンセント・ファン・ゴッホは、もっとすごい存在として早くから認められていたかもしれない。
彼には強い探究心と、それを実行するチカラがあったからだ。
そして、彼に人間を知り、コミュニケーションを学ぶ場があったなら!
全く違ったことが起きていたかもしれない。
社会は、まだまだ大きく変わっていく可能性がある。