気づきの伝道師 藤井一規です。
自由が奪われると聞くと、それは嫌だ!
と思う人は多いだろう。
しかし、誰かから自由を認められない場合も多かったりします。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/18786/
この記事の目次
「他人の自由を否定する者は、自らも自由になる資格はない」
by エイブラハム・リンカーン (米国の第16代大統領)
自分が自由でありたいなら、他人の自由も認めてきなさい。
アメリカの奴隷解放宣言を出したリンカーン。
しかし、意外に私たちは様々な制限のもとに生きているし、
制限のおかげで安心していられたりする。
もうしばらく掘り下げていく。
<自由と責任>
自由には責任が伴うことを、これまでも書いてきた。
自分が発揮した自由の結果起きたことに、
責任を持たないまま、
「そんなの私の自由でしょ」って、
他の人の迷惑になることを無自覚なままでしている人には
自由を発揮する資格がないと思われても仕方がない。
自由であるためには、他の人の自由も尊重する必要があるのだ。
<親子>
子どもが成長していく段階で、
親の存在が煙たくなる時期がある。
遅く帰ると怒られる、
勉強しないと怒られる、
ふざけていると怒られる
いちいち親から小言を言われたり、怒られることで嫌になったりする。
子どもの目線からして、
親のほうがぐうたらしていたり、
親の体面のために小言をいわれたりしていると感じたら、
大人なんて!って思うことがある。
おまけに今日のような言葉を聞くと、
おかしいじゃないか!という気持ちになるだろう。
<責任のありか>
しかし、親が子供の自由を制限するということは、
子供のしたことには、親が責任を持つということがついてきている。
制限があるところには、それなりに安心もあるということだ。
スコットランドにいたとき、若い部下たちが
21歳になるのをものすごく楽しみにしていた。
21歳までは親の言うことに従うことが決まっていて、
それ以降は、自由にすることができるからだ。
ただ、自由を得ることは責任を自分で持つことだ。
その自覚がないまま、好き勝手にお酒が飲めるだったり、
自分の意思で一人暮らしができるというお祭り気分だとしたら、
よく考えてみる必要がある。
話してみると、ある程度の自覚があったので、
家なのか学校なのかでしっかりと伝えられていたのかもしれない。
もちろん、現実の生活では、
親の自己満足のためからくる制限もあるかもしれない。
そのとき、自分で自分に責任を持つということの重みを
わからないまま、不満だけを言っているとしたら、
考え直したほうがいい。
<自覚を育む>
親子だけでなく、仲間、趣味の場、職場などでも
束縛や制限を受けることがある。
人間が人とかかわりあいながら生きていく以上、
束縛や制限が全くない、などということはない。
その束縛や制限が、妥当なものだと受け入れられるように
お互いに認識できるようにしていきたい。
明文化していなくとも、守っていったり、
作っていったりしたい大切なことを共有していきたいもの。
そんな集まりにいるとき、
束縛されているとか、制限されていると感じるのとは、
違う感覚がきっと得られるはず。