気づきの伝道師 藤井一規です。
生きていれば様々な心配事がやってきます。
どのように心配事と付き合っていくかは、
大事なことのひとつと言えそうです。
しばらく考えていきます。
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この記事の目次
「心配しても始まらないことは心配しない方が利口だ。心配すべきことを心配しないのはよくないが、それも大胆に、いじけずに心配すべきだ」
by 武者小路実篤(小説家、詩人、劇作家、画家)
心配したところで、どうしようもないことを
あれこれ心配しても役には立たない。
かと言って、備えておけば何とかなることを
何も考えないでいるというのも考えもの。
もうしばらく考えていく。
<心配できる存在>
人間には心配する能力がある。
動物も恐る恐る行動するという姿を観察することができるが、
不快を避けようとするものと言えそう。
ところが人間は、起きてもいないことに対して、
悪い状態になることを想像し、
実際にひどい状態の中にいるのと同等の体験をすることができる。
これは、人間の素晴らしい能力だともいえるが、
せっかくの時間を無駄にし、
自分の心と身体とを痛めつける行為だったりする。
何も起きなければ、心配した分だけ損をすることになるし、
起きたときには、それまで心配していた分と、
実際に起きた分との両方を味わうことになる。
<適度な心配>
もちろん、適度に危機に備えておくことは重要なことだ。
大地震が来ると予想される中、
3日程度の飲料水、食事などの備蓄は、しておいたほうがいい。
道路を渡るときには、いくら信号が青だからといっても、一度は左右を見ておきたい。
ちょっとしたことで、取り返しのつかないことになる事態を防ぐことができるなら、
備える価値がある。
<過剰な心配>
私たちの想像力には際限がない。
だから、心配し始めれば、どこまでも心配することができる。
すると、多くの場合、する必要のない心配をしてしまいがちだ。
また、心配したところで、手の施しようがないことを心配しても、役には立たない。
どうせなら、安心していられる時間が長いほうがいい。
子供が心配だからと言って、
自分の傍から離さないようにすればいい、
というものではないし、
四六時中心配していたら、
ろくに何もできなくなってしまうだろう。
心配は適度に収めておくことが肝要だ。