気づきの伝道師 藤井一規です。
現代の日本において、自由は当たり前の存在になっているような気持ちがします。
しかし、それは本当でしょうか?
世界において、明らかに自由が制限されているニュースを聞くと、
日本は素晴らしいように思いますが、本当に自由を発揮できているのでしょうか?
しばらく掘り下げていきます。
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この記事の目次
「いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ」
by ジョン・ミルトン(英の詩人、共和派の運動家)
自由については、これまでも何度か触れてきたように、
責任が伴っている。
好き勝手、気ままにすればよい、というものではないく、
自由だからこその大変さもある。
そこで良心との関りが生まれてくるという考えがある。
もうしばらく、掘り下げていく。
<自由>
自由であるということは、よりどころがないということでもある。
誰かの言うことを聞いていればいい、というものではないし、
ルールを破りさえしなければ何をやってもいい、
という考えも違っている。
自分が、自分の責任において判断し、行動することが求められている。
何かをしなさいといわれるまで何もしなくてもいい、
というのも違っているのだ。
<良心>
私たちはあまり、権限を与えられていないのに、
自らオーナシップを取って考えること、行動することをしていなかったりする。
誰かから、あるいは集まって、
あなたこれをお願いね、と言われない限り、
何もしないことが多い。
何か異変があっても、自分のしたことじゃないやって
思ってしまったりする。
しかし本当は、こうしたらもっと安全になったり、
暮らしやすくなったり、便利になったりするのだとしたら、
良くしていくために、どうすればいいのか?
自分の良心に問いかけてみることが大事だったりする。
<責任と役割>
何か異変に気付いたのなら、実際に直接元に戻す役割ではなくても、
より望ましくしていく、という点において、
必要な人に知らせるなど、できることをする責任があるのだ。
自由だから何をしてもいい、しなくてもいい、というものではない。
そこに生きる人としての責任と、良心においてオーナーシップをもって
どうしていくのかを考え、行動に移すことが自由であることだ。
そのためには、まず良心の命じるままに知り、語り、論ずることが
必要になってくる。
この言葉に触れて、そんな考えが浮かんできました。