気づきの伝道師 藤井一規です。
希望を持つことは、ポジティブに受け留められることが多い。
しかし、一般の人が考えているようなバラ色的なものではないとカミュは言っている。
それはいったいどういうことなのか?
しばらく掘り下げていきます。
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この記事の目次
「希望とは一般に信じられている事とは反対で、あきらめにも等しいものである。そして生きることは、あきらめないことである」
by アルベール・カミュ(フランスの小説家、劇作家、哲学者)
希望とはなんだろう?
自分では実現できることなら、
目標と言い換えることができる。
もし目標ではなく、単に望んでいることとは、
自分では実現できないから、こうなったらいいのにな。
に留まっているのかもしれない。
もうしばらく掘り下げていく。
<あきらめ>
生きることはあきらめないことだ。
とカミュは言っている。
しかし、あきらめるということは、悪いことなのだろうか?
あきらめるは、諦めると書くが、
「諦」には、悪い意味はない。
言と、音符帝(テイ)とから成る。明らかにする意を表す
(出典『角川新字源 改訂新版』)
不条理だったり、無理な考えだったことを
明らかにすることが、あきらめるということなのだ。
仏教用語でいう、見きわめられた道理。真理。真実。なのだ。
あきらめないということは、
煩悩に囚われている、執着していると考えることもできる。
<希望=あきらめ?>
目標として持つことができないけれど
希望を持つということは、
自分では実現できないって捉えているという指摘をカミュはしている。
単に希望という名前の幻想を抱いていても、実現はされてはいかない。
実現させていこうともがいていくのが、
生きていくことだと言っているのかもしれない。
しかし、持っている希望を書き出してみると、
自分の都合だけを考えた醜いものがたくさんあったりする。
諦めるべきものがある。
また、目標にしたほうが良いものがたくさんある。
<生きていくこと>
ただ漠然と、誰かから与えられないかな、
と希望しているだけでは、得られない可能性のほうがはるかに高い。
不条理なもの、無理なもの、
誰かを不幸にし、自分にだけ都合がよいものは、
スッパリとあきらめたほうがいい。
実現することで、真の幸せが増えていくものを明らかにし、
目標に据えて求めていきたい。