気づきの伝道師 藤井一規です。
どんなことにも、適度という程度があります。
順調であっても、調子に乗りすぎてはいけなかったりします。
しばらく掘り下げていきます。
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この記事の目次
「度を越してはならない。節度をもって取り組め」
by マルクス・トゥッリウス・キケロ(共和政ローマ期の政治家、文筆家、哲学者)
どんなときにも、どんなものにも節度というものがある。
私たちはときに、節度を忘れてしまうことがあるが、
何をもって節度あると言えるのだろうか?
もうしばらく掘り下げていく。
<つい度を超える>
私たちは、つい度を超えてしまうことがある。
お酒を飲む人なら、つい飲みすぎてしまったことがあるかもしれない。
うまくなろうとして、練習すればするほど良いからと言って、
やりすぎて身体を痛めてしまったことがあるかもしれない。
自分が調子がいいからと言って、いい気になって
練習をさぼってしまったことがあるかもしれない。
自分が勝ったからと言って、
相手を痛めつけすぎてしまったことがあるかもしれない。
どんなことにも適度なところがあるようだ。
<節度のある範囲>
では節度があると言える範囲とは、
どう判断し、どう感じ取ればいいのでしょう?
あなたはどう線引きしていますか?
自分だけのことなら、適度な線は
健康な状態を保てるかどうかで決められるかもしれない。
では、相手のある時はどうだろう?
勝負事だったりすると、勝負の最中や、
勝ったり、負けたりしたときに
思わず相手を貶めたり、心を傷つけるようなことを
言ったり、してしまうことが起きたりする。
また誰かがひどいことや、間違ったことをしたとき、
必要以上に責めてしまったりすることが起きたりする。
<敬意をもって>
まずは、誰であっても、人としての敬意を持ち合わせていきたい。
本来持つべき意識の高さを持てていないなら、
持てるようにしたり、持てるようにサポートする仕組みが必要になる。
人に攻撃の焦点を当てるのではなく、
周りのサポートや仕組みのほうに焦点を当てていく。
もしそれが、競争する相手なら、相手は自分を高めてくれる存在でもある。
敬意をもっていきたい。
次に人や自分が取り組んでいることにも敬意を持ち
恥ずかしくないようにしたい。
また自分自身の身体に対しても敬意を持って、
無理を課さないようにしていきたい。