思春期の子が何もしゃべってくれないときにする魔法の質問
思春期の子どもの専門家、くればやしです。
お母さんは悩まれていました。
「ウチの子、何にも話してくれないんです。
何を考えてるんだか、サッパリわかりません」
反抗期だから、で片付けてしまう前に一歩立ち止まって考えていただきたい思います。
この記事の目次
子どもが何も話をしてくれないときは
思春期の子どもたち。
母親と口も聞かない目も合わせないなんて子もいます。
お父さんとは一切関わらないなんて子もいます。
そんなとき、大切にしたいことあります。
「私はこの子のことを何も知らない」ということを自覚すること。
そして、子どもへの高い関心をもつこと。
でも、干渉はしないこと。
さらに、この子が話したいと思ったとき、いつでも聴いてあげられる心の準備をしておくこと。
責任のバイアス
一つの「問い」をさせてください。
家庭を維持するすべての仕事を100としたら、あなたの貢献度はいくつですか?
炊事、洗濯、食器洗い。
ゴミ捨て、風呂洗い、草むしり。
子育てに買い物に…etc。
いろいろな家庭のお仕事がありますね。
さて、あなたの貢献度はいくつですか?
この貢献度。
あなたが60ならば、パートナーは40。
あなたが30ならば、パートナーは70。
つまり、本来ならば二人の合計は100になるはずなのですね。
それなのに、この数字。
夫婦で行った場合、多くが100を超えるのだそうです。
つまり、自分の貢献度を高く評価する傾向があるそうなのです。
相手の努力に対して自分の貢献を高く評価することを「責任のバイアス」と呼んでいます。
「一部」で「全部」をジャッジしていませんか?
相手の努力に対して自分の貢献を高く評価してしまう。
こういうことは、なぜ起こるのでしょうか。
そこには、「受け取る情報の差」に関係があります。
「他人がしてくれたこと」よりも「自分がしてあげたこと」の方が、たくさん記憶されています。
自分がしたことをすべてわかっているのは当然のこと。
ところが、相手がしてくれたことは一部しか見えません。
一部の「見えたこと」で、「全部」をジャッジしているのですね。
夫婦ですら、相手のことは20%も理解していないという統計もあるそうです。
相手のことは20%しか知らないのに、それをすべてだと思ってしまう。
そんなところが、僕らにはありますね。
では、子どもたちはどうでしょうか。
子どもたちのことは、どのくらい理解しているでしょうか?
どのくらい知っているでしょうか?
親ですもの。
100%?
80%?
さて、どのくらい知っているでしょうか。
子どもには子どもの世界があるのです
思春期ともなると、行動範囲、交友関係はどんどん広がります。
学校があるのは1年間で200日程度。
せいぜい学校にいるのは8時間。
(200日/365日)×(8時間/24時間)=0.183
つまり、20%。
そのぐらいなのですね。
一方、家庭ではどうでしょうか。
思春期を迎えると、家族と過ごす時間はぐ〜んと減ります。
帰宅しても、さっさと自室に入ってしまったり、出かけてしまったり。
孤食なんて言葉もあるように、別々に食事をするご家庭もありますね。
部活動に学習塾に習い事に。
きっと、家族で過ごす時間も20%ぐらいのものなのではないでしょうか。
僕らは子どものことをわかっているようでわかってはいないのですね。
子どもには子どもだけの世界が存在します。
そこは、大人が踏み込むことでのできない子どもだけのワンダーランド。
ときおり、そこに足を踏み入れようとする大人がいます。
そんな大人を子どもたちはこう表現します。
「ウザいよね…」
知らないことを知っている?
つまりね、子どものことをわかっているようでわかってはいないのです。
ところが、ある一面だけを見て、「この子はこんな子」とジャッジしてしまうところが大人にはありますね。
ソクラテスの言葉である「無知の知」。
「知らないということを知っていること」
これはとても大切にしたい言葉であると思うのです。
ときおり、先生たちが使う言葉に心配になることがあります。
それは、「絶対」という言葉です。
「この子って絶対こうですよね」
「あの親は絶対こうなんです」
絶対という言葉は、確信を表しているわけではないと思うのです。
自分に言い聞かせるように、周囲に納得させるように用いるギミック。
「絶対」が口に出たら注意だなって思うのです。
それ、ジャッジですから。
僕らは、子どもたちの一部しか見ていません。
そのすべてを見ることなど不可能です。
その一部でもって、「全部」をジャッジしてはいないでしょうか。
「私はこの子のことを何も知らない」
そういう在り方で、ただただ寄り添うことが必要なのだと思います。
それは「しつもん」ではなく「尋問」です
「この子のことを何も知らない」という自覚はある。
けれど、だから「この子のことを知りたい」と、あれこれあれこれ、根ほり葉ほり尋ねてしまう方が見えます。
「今日、何があったの?」
「学校はどう?」
「友だちとはどう?」
「今日は宿題ないの?」
そうやって「この子」のことを知ろうと、根ほり葉ほり聞いてしまう。
そして、お母さんはおっしゃるのですね。
「この子は何も話してくれません」
そう言って悩まれるのですね。
でも、考えてもみてください。
仕事から帰ってきた旦那さんが、あなたの1日を根ほり葉ほり聞くのです。
「今日は何をやってたんだ?」
「午前中は家事をやったのか?」
「午後はどうなんだ?」
「だれと会ったんだ?」
「家事はやったのか?」
ちょっと疲れませんか?
あれこれ聞かれる、これって「しつもん」じゃなくって「尋問」です。
自分が知りたいことを根ほり葉ほり聞くこと。
これって、「子どもの世界」に土足で入る行為なの。
そりゃ「ウザい」って言われちゃいます。
口も聞きたくなくなります。
このブログでお伝えしたいこと
ホントはね、「聞いてもらいたいこと」を話したいんですよね、だれだって。
それなのに、聞きたいことを聞いてしまうから、子どもたちは話したくなくなるんです。
聞く側としては「聞きたいこと」を聞きたい!
話す側としては「話したいこと」を話したい!
「聞きたいこと」と「話したいこと」にはギャップがあります。
一番大切なのは、子どもとのつながりです。
知りたいことを知るために聞くのではなく、「つながり」をつくるために聴くのですね。
「私はこの子のことを何も知らない」という自覚のもと、関心だけを高くもつ。
この子が話したいと思ったとき、いつでも聴くことのできる心の準備をしておく。
ただそれだけでいいのです。
ただ聴いてほしいだけなんです。
ただ受け止めてほしいだけなのです。
それをジャッジされるから、話したくなくなるのですね。
魔法の質問
- この子のことで「知らないこと」は何ですか?
- その中で、絶対に知らなければならないことは何ですか?
- ただ受け止めるために、今日からできることは何ですか?