ついつい子どもを比べてしまうときにする魔法の質問
思春期の子どもの専門家、くればやしひろあきです。
お父さんは言いました。
「コイツね、自分ではがんばってるって言うんだよ。でもね、先生、見てみな。全部平均点以下なんだ。こんなの努力してないよね。努力したら、平均点ぐらい取れるんだわ。だからね、コイツは努力してないんだよ」
勉強が苦しい子どもたちがいます。
そのことについて、今日は書きたいと思います。
学校の成績ってマラソンに似ている。
どうも、努力したら結果はついてくるものだという迷信があります。
僕もよく子どもたちのノートに書きます。
「努力した時間は裏切らない」と。
でもね、「努力した時間」は必ずしも結果につながるわけではありません。
努力した経験は、ちゃんとその子の中で生きてきます。
未来できっと生かされます。
だけど、数字という結果になって表れるわけではないのです。
この誤解だけは、解いておかねばなりません。
実際、受験生になって、「なんとか成績を上げたい」と必死になってもがく子どもたちはたくさんいます。
ところが、そのほとんどはなかなか成績は伸びません。
理由は簡単です。
みんなががんばり出すからです。
学習内容が難しくなります。
みんなもがんばります。
全体が上がっていくのです。
ですから、平均点や学年順位や偏差値という相対的な数字が向上することはほとんどの場合ありません。
ときおり、驚異的な伸びを見せる子もいます。
中には…です。
それはね、これまで全然勉強をしてこなかった子が、突然がんばり出して向上する、なんて場合です。
中3の夏まで部活動に打ち込んでいた子がね、夏の大会で引退する。
これまで部活動に注いでいたエネルギーを、お勉強にシフトする。
そんな子が突然伸びるなんてことは、過去にもありました。
これまでの教員人生で、片手で足りるほどの人数です。
日頃からコツコツやっている子が、ここからさらに…なんてのは、なかなかありませんでした。
ときおり、そういうのが本になって売れたりしまう。
ビリのギャルがお勉強をがんばって…みたいな。
でもね、そんなの1学級に1人いるかいないか、といったところなんです、本当は。
これね、マラソン大会みたいなものなんです。
手を抜いたら、どんどん抜かされていきます。
一方、必死になって努力して、やっとついていけてるのです。
中3になるとね、どんどん走るスピードも速くなる。
それに付いていくだけで精一杯です。
順位が上がる!
偏差値が上がる!
そういった結果をもって、「努力している」「努力していない」とジャッジされたら、子どもたちは苦しくなります。
それはね、体重の減らないダイエットと同じです。
どれだけ食事制限をしても、どれだけ運動をして汗を流しても、一向に体重が落ちなかったらどうですか?
心が折れるでしょ?
それでも続けられますか?
苦しいですよね。
子どもたちは必死になって走っています。
その子その子のペースで走っています。
走っていることが素晴らしいの。
走り続けていることが素晴らしいの。
止まっても、また走ろうとすることが素晴らしいの。
だれも追い抜かなくたっていいんだよ。
この子はこの子であるだけで素敵な存在。
そう思えたら、親も子も心地いいのになって思います。
家庭教師をつけたけど…
その子、家庭教師をつけたんだそうです。
大の勉強嫌いだった彼だけど、よく机に向かっていました。
テスト前には目の下に大きな隈をつくってましてね、「先生、昨日は◯時間も勉強したよ」なんて教えてくれます。
「いいね。無理しすぎないようにな」なんて伝えていました。
もともと勉強が得意な子ではないのですね。
でも、受験が近づき、彼は一念発起したのですね。
それで、テストが返ってきました。
平均点にはわずかに届かなかったけれど、大躍進です。
でもね、お父さんは言うわけです。
「コイツね、自分ではがんばってるって言うんだよ。でもね、先生、見てみな。全部平均点以下なんだ。こんなの努力してないよね。努力したら、平均点ぐらい取れるんだわ。だからね、コイツは努力してないんだよ」
子どもをかばう僕に、感情的になりながらお父さんは言いました。
「先生がそんなに甘いから、子どもがつけあがるんだわ。厳しくやればいいんだ」
あとは、お決まりのパターンです。
「昔の先生はよかった。
よく殴られたけど、昔の先生は気合が入ってたね」、って。
あとで、この子ね、涙ながらに話してくれました。
うれしかったんだって。
努力したら、点数が上がったって。
いつも1桁の点数を取ってしまうような教科もある子でした。
それがいつもよりも点数が上がったんです。
それで、お父さんに答案を見せた。
お父さん、褒めてくれると思った。
きっと褒めてくれるだろうって、そう思った。
だけど、お父さんはガッカリした。
そして、怒った。
努力が足りないと言われた。
家庭教師なんて、金の無駄だったと言われた。
どれほど悲しかったでしょうか。
今、思い出しても涙がこぼれそう言葉でした。
理解の早い子が優れているの?
比べることを手放してみる。
それ、手放せたら、むちゃくちゃ楽になる。
子どもの成績はね、親のブランディングにはなりません。
大切なのは、親と子のつながり。
僕はそう信じています。
その子のありのままを受け止めるだけでいい。
順位も平均も偏差値もね、全部他人との比較です。
比べるから苦しくなるんだよ。
比べない、比べない。
この子はこの子であるだけで素晴らしいんです。
教室では、理解するスピードの早い子が優れているって評価されることが多々あります。
先生の授業のペースについていける子ですね。
じゃあ、理解の遅い子はダメかっていうと、そういうものではないじゃない?
素早く学んで、素早く忘れる子もいます。
ゆっくり理解して、より深く学ぶ子もいるわけです。
そこに「良い」も「悪い」もありません。
そこに「優」も「劣」もないのですよ。
手放すことで輝く子もいるのだよ♫
今から10年以上前、僕は「挙手をさせて当てる」ってのをやめたんです。
だってあれ、理解の早い子の独壇場なんだもん。
当たる子、同じような顔ぶれなんですね。
それで、問題を出したらノートに答えを書かせるようにしたんです。
そしたらね、僕は机の間をグルグル巡りながら、キラキラした答えを探して回るの。
そして、素敵な答えを見つけたらね、こう声をかける。
「これ、黒板に書いて♡」
そうすると、その子、一瞬戸惑うんだけど、その後、うれしそうに黒板に書きに行くの。
他の教科では活躍の場面がない子が、ものすごく活躍するの。
逆に、バンバン手を挙げてる子は、シュンとなっちゃうの。
早さは求めてないから。
その子その子の言葉の輝きを大事にすることにしていたんです。
そしたらね、子どもたちに大きな変化が起きたんです。
忘れもしない。
1年間を終えたときの授業のアンケート。
「国語だけは、私の考えを認めてくれました」
「黒板に書いてって言われると安心しました」
みんな違ってみんないいんだよ
いろんな子がいていいんです。
学び方にもスピードがあるのね。
早くて広い子、ゆっくり深い子。
どっちもいいよね。
その子その子の学びがあって育ちがあって、それを許容できたら、それでいいんだ。
我が子のありのままを、受け入れ、認め、許し、愛する。
ただそれだけ。
つまり、これは大人の問題なの。
今、子どもたちに起こってる(ように見える)問題は、すべて大人が生み出してるんだよね。
魔法の質問
最近、比べたことは何ですか?
比べることを手放して、困ることはどんなことですか?
「ありのまま」を受け入れたとき、何が起こりそうですか?