気づきの伝道師 藤井一規です。
誰かの言っていることを批判することってあるもの。
しかし、それが感情的な対立につながったりすることもある。
今日は、批判すること、されることについて考えていく。
<ブログ>
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この記事の目次
「たとえ私の門人でも、その後いい考えが出てきたら、私の説を批判しながらその考えを広めなさい」
by 本居宣長(江戸時代の国学者・文献学者・医師)
成長のために、学ぶことは必要なもの。
反対にあなたが伝える立場になることもある。
自分が教えた相手が、教えた内容を否定したり、批判していると知ったら、
嫌な思いをするものだけれど、本居宣長の在りようは考える価値がある。
<正しさ>
世の中にこれだけが正しい。
というものは、まず存在しない。
争いごとも、お互いが自分の方が正しいと主張しあうことから始まっている。
立場が違えば視点が変わり、正しさの基準は変わってしまう。
もちろん、ベストを目指すことはできる。
それも、現時点での情報、考えうる視点において、
ということになる。
<未知のこと>
私たちが直接知りえないこと、
例えば太陽系の成り立ちを考えるとすれば、
今得られうる情報から、最善の推測をすることになる。
より進んだ科学的アプローチがでてきたら、
新しい事実が得られたりする。
すると今までの説は、その事実に合っているのかを検証することになり、
どれほどそれまで世間から支持されていたとしても、
新しく書き換えられていくことがある。
歴史の教科書だって、時とともに書き換えられていっている。
常により望ましいと考えられるものに、取って代わっていっている。
<批判するとき>
ただ、どの時点においても、誰の、どんな視点においても、
そこには主張するだけの思いがあり、正しさがそこにある。
もし、あなたにとって、違和感があって
主張している内容について批判しても、
主張している人を批判することに、つながりやすいことに気をつける必要がある。
逆に、きちんと人を認め、主張の内容について批判していても
批判を受けると、人は自分のことを批判されたと捉えやすい。
意図しない対立が生まれてしまったりする。
特に、師弟関係であれば、師匠を批判したり悪いところを吹聴するようなことは考えもの。
<人と考えは別>
誰しも、今持っている考え方は、あくまで現時点のベスト。
気づき、学び、発見し、成長して、更なるベターなものに変わっていくもの。
「あいつの今の考え方は妙だ」というのと、
「あいつは妙だ」というのでは、とてつもなく大きな違いがある。
知らず知らずに後者になったりする、ということに気づいておきたい。
しかも、そう言っている自分の今の考え方の方に
見直した方がよい点があったりする。
共に、より望ましい考えに近づくための努力が
できるようにしていきたいもの。