気づきの伝道師 藤井一規です。
やってみたいけれど、なかなか始められない。
そんなことを経験することがあるかもしれない。
今日は、始めてみることについて考えていく。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/11335/
この記事の目次
「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから」
by 司馬遼太郎(作家「竜馬がゆく」より)
どんなことでも、一番大変なのは最初の一歩。
その一歩を踏み出せない理由、そして一歩を踏み出していくために、
どうしていけばよいだろうか?
<予測できれば>
誰しも、安心安全を求めるところがある。
足元の不安定な吊り橋の向こうに、素晴らしい世界が待っているかもしれない!
とわかっていても、足を踏み外したら、ひょっとして吊り橋が切れたら。。。
さまざまな負の想像をめぐらして、恐れていたりする。
たとえ今が、苦しくて辛くても、今耐えていられるなら、
次に起きることはだいたい想像ができ、もう少しは耐えられる。
不安な吊り橋に踏み出すのも、
せっかく渡ったからといって、何が待っているかわからない不安が大きければ、
予想がつく方により安心を感じたりする。
<人生での後悔は>
「人生を振り返ってみて、後悔していることは何ですか?」
という調査を人生の終わりを意識している人たちにすると、
なにかやってみて、失敗したことではなく、
やらなかったことの方が圧倒的に多いことが知られている。
やっていれば、うまくいこうが、そうでなかろうが、
やっただけの経験を積むことができる。
しかし、どんなにやりたいと思っていても、
実際にやらなかったら、同じ長さの時間を過ごしても、
得られるものが少なくなってしまうだけ。
<できるかどうかより>
何かに取り組もうとするときに、
つい、出来るかどうかを気にしてしまう人は多い。
出来ないんだったら、無駄になると思ったりする。
足元の不安定な吊り橋にしても、
無事に渡れるかどうかが気になる。
でも、いくら考えたって、それだけでは渡れない。
渡ろうと踏み出さない限りは進まない。
足を置く場所もあるはずだし、手で持つところだってあるはず。
できるかどうかを考えるよりは、やるかどうかにかかっている。
<自分の選択>
もちろん、どんなものであっても、
なにがなんでもやらなければならない、というものではない。
積極的にやらないと決める、という選択肢もある。
それは、やりたいなあと思いつつ、踏み出せないのとは全く違う。
自分の一生を終えるときを考えてみて、
やらずにいたら後悔するようなことなのか、
まあ、やらなくて正解と思えることなのか、
もし、後悔するかもしれないと思うなら、
小さな一歩でもいいから、踏み出してみたい。
踏み出せば、いままでとは見えるもの、聞こえるもの、感じるものが
きっと違ってくる。