気づきの伝道師 藤井一規です。
従来の日本の学校教育は、どれだけ覚えたかを重視してきた。
しかし、これからの時代、覚えているよりは、
どれだけ考えられるかが重要になってくると言われる。
今日は、覚えること、考えることについて考えていく。
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この記事の目次
「憶えることと考えることは、まったく違うことで、脳は憶えるという作業では汗をかかないのである。考えて、考えて、考え抜いてはじめて汗をかく」
by 米長邦雄(将棋棋士、永世棋聖)
日本人はよく覚え、欧米人はよく考えると言われる。
覚えることも、考えることも、脳の大切な機能だけれども、
これからの時代、考えるチカラが求められるという。
どういうことなのだろうか?
<覚えることと、考えること>
覚えることは、そこに有るものを記憶すること、取り入れることだ。
正しい知識があることは、生きていくためにも役に立つ大切なこと。
有るものを、有ると捉えることができたり、
そこにある原理や法則をしっていることはとても役に立つ。
これに対して、考えることはそこに既にあるものではなく、
予め用意されていないものを生み出すチカラも含んでいる。
答えがないところに答えを生み出すのは、
考えるチカラだ。
<自分を確立するには考える>
日本人は議論が下手だ、とよく言われる。
正解があるような場合は、覚えた知識がモノを言うが、
どれが正解だとわからないような場合や、
どれもが正解となりうるような場合は、
知識だけではどれを選ぶべきかは決まらない。
自分なりの答えを、導き出す必要がある。
そこには考えるチカラが必要になってくる。
考えていないと、周りに流され、翻弄されてしまっても
そのままになってしまう。
意見を言えないということは、考えていないとは必ずしも一致しないのだが、
国際的な場面では、そう判断されてしまうことがある。
<追いつき追い越せ>
江戸時代の末期、欧米との力の差に愕然とされられた日本。
世界の多くが欧米の植民地となっていっていることにも気づき、
いかに速く追いつくか、その一点に集中していった。
そのためには、先行している欧米のことを知り、
そのまま取り入れるのが速い。
たくさんの知識を、ひたすら取りこんだ。
相当強引なことも行われたが、
先進国のようになることが最優先事項だった。
国の方向性を考え、引っ張った少数の人たちと、
それにひたすらついていった多数の人たちという構成が生まれた。
知識は必要だが、考えない人が多い方が、変革には便利。
そんな経緯も、日本が記憶重視の教育になった背景かもしれない。
表面的に見えた、経済的、工業的発展を正解として、
ひたすら日本に取り入れてきた。
<人生の正解>
人生に正解はあるだろうか?
どの教科書にもそれは書いていない。
ある人にとっては正解でも、他の人にとっては違うことだってあるし、
正解だと信じていたものが、あるとき違っていたことに気づくこともある。
例えば、現在になって、江戸時代の社会はエコで、
持続可能な仕組みを持っていたかもしれないと言われたりする。
もちろん、江戸時代に戻ればいいというものでもないだろう。
正解は、覚ようとしても、覚えられないものだ。
人生の正解は、いろいろな知識や考え方に触れながら、
自分なりに考え、つくりだしていくもの。
もっと考えることにチカラを注いでもいいのは確かだ。