気づきの伝道師 藤井一規です。
世界のどこかで戦争が行われる事態となっています。
わたしたち自身も、ときにはいさかいを起こしたりします。
巻き込まれた人々は平和や平穏を願うにもかかわらず、
終結できず、続いてしまったり。
今日は、戦争の言葉から、私たちの日常を考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/12120/
この記事の目次
「好戦的な国民など存在しない。好戦的なリーダー達がいるだけだ」
by ラルフ・パンチ(米の政治学者、外交官、ノーベル平和賞受賞者)
争いごとを完全になくすことは難しい。
しかし、戦争となると、国や地域といった組織の軍隊が動くことになる。
国などのリーダが戦うと決め、その他が従うことが伴う。
しばらく、この言葉から私たちの日常までを考えていきたい。
<組織>
大きな組織を作り出すと、それを守ろうとする働きが生まれる。
生まれたものを維持することで、安心感が得られたりする。
これまでは、上下関係を中心としたピラミッド型の組織が中心で、
トップの言うことに、全員が従う。という動き方をする。
軍隊はその形をとる、典型的な組織となっている。
だから、軍を構成している各人の意思がどうあれ、
より上位からの命令に従うことが優先される。
<不満の充満>
もちろん、何の問題のない状態であれば、
いくらなんでもいきなり戦争せよ!ということにはならない。
対立関係があって、不満が溜まっていき、
通常の手段では、もはや解消できず、行き詰ってしまった
という考えに囚われていくことが条件としてあるかもしれない。
ときには支配的階級にある人たちが、
自分たちの存在の安寧を図るためだったり、
自らの利益のために、戦争という、多くの需要を無から生み出せる、
邪悪な魔法の杖を振ってしまうことがあったりもする。
いずれにしても、戦争がやむを得なかったのだ、
という雰囲気を作り出すことが行われる。
<命を奪うことまで正当化する戦争>
そうして盛り上げられた結果、
わずかなリーダの決断によって戦争が始まってしまったりする。
戦争は、命を奪うことまで正当化してしまう。
ひとりの命を奪うのは殺人でも、戦争となれば相手を倒すことは、
国の守ったヒーローとされたりする。
戦争は、判断が正常に行われなくなる状態に突入することだといえる。
戦争でなくても、日常の争いやいさかいも、エスカレートしてしまうことで、
冷静になれば、過剰なこととわかってもやりすぎてしまうことがある。
<戦いの根拠>
最近、日本の憲法改正の話題がメディアで盛んに取り上げられつつある。
平和憲法を維持することはおそらく変わらないだろう。
しかし、戦争は一部のリーダの判断で始まってしまう。
ときには面子やプライドを守るためだったりする。
世界や正義に貢献するため、とされたりもするが、
世界とか正義とは、立場によって何が世界か、
何が正義かが変わってしまうもの。
これは、私たちの日常生活においても考える必要のあることだ。
<私たちの在るべき姿>
気をつけなければ、私たち自身も何からの形で、
不必要な争いを煽ったり、その争いをリードしたりするかもしれないことだ。
また、誰かが何とかしてくれるはず、と考えることをやめてしまい、
誰かについていってしまうと、
ふと気づけばしなくてもよかったはずの争いの中に
参加する羽目になってしまっていたりする。
一人一人が独立し、よく考えたうえで賛同できることに、
責任を持って加わり、逆に参加を断っていくことが求められているのではないだろうか。