気づきの伝道師 藤井一規です。
正しさ、は絶対的な正しさがあるとする人もいるし、
人それぞれが判断するもので、絶対の正しさというものは存在せずに、
様々な条件のもとで初めて成立しているとする人もいる。
今日は「金八先生」の言葉から、正しさについて考えていきます。
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この記事の目次
「正しいという字は『一つ』『止まる』と書きます。『どうか一つ止まって』判断できる人になって下さい」
by 金八先生
私たちは、正しい、間違っている、で物事を判断しようとしたりします。
しかし、この正しい、とはどういうことなのだろう?
この言葉をきっかけに、正しいとはどういうことか、についてしばらく考えていく。
<正しさとは>
最初に、正解に対する3つの立場について触れておく。
ひとつは、問題があれば、必ず正解が決まるという考え方がある。
数は、たった一つのこともあるし、複数となることもある。
その答えに一致すれば正解、一致しなければ間違っている、という考え方だ。
これを絶対主義と呼んだりする。
対して、正解が存在しない問題もある、とする考え方がある。
これを虚無主義と呼んだりする。正解がないのだから、答えることができないとするものだ。
正解がないのなら、行動もしないという傾向になったりする。
そしてもうひとつ、正解は無限に存在するという考え方が、相対主義だ。
それぞれの条件に照らして出てきた答えは、どれも正解とするものだ。
<正しさを設定する>
何かをするときに、正しいと感じ、思えることをしていれば、自信を感じることができる。
正しさの設定に従っているときは、安心感がある。
することが間違っているな、と感じ、思っているならそうはいかない。
そう、私たちは無意識のうちに、自分の中で判断基準を設けていたりする。
その判断基準は、ひとりひとりの人の中にあるだけであれば、異なることになり、
相対的なものとなっている。
同じ社会で、共通で定めようと明文化したものが法律や条例などになれば、
絶対的なものに近づいていく。
しかし、変更されていく可能性はあり、共有した世界以外では通用しない。
それに、日常生活においての判断は、自分自身で決めていくことのほうが、遥かに多いだろう。
<止まってみる>
私たちの周りには、ちょっと判断に迷うようなものもたくさんある。
あまり良くないけれど、やったほうが正解だと思えるなら、
自分なりの正しさの設定に従って行動する可能性が高くなる。
また、自分一人だったら、自分の正しさの基準に照らしたらやらないことを
周りの人たちの勢いに流されて、外れたことをしてしまった、なんて経験はないだろうか?
仲間外れにされたくない思いが勝って、自分の正しさを曲げてしまったりする。
その結果、どんな思いを抱いただろうか?
さらには、権限を持つ誰かに命令されたとき、通常であれば従うのが正しいけれども、
命令が、あなたの正しさの基準を逸脱していることがある。
そのとき、命令なんだからと、盲目的に従って納得できるだろうか?
このように複数の正しさがぶつかり合って、わかりにくくなることがある。
どれが必ず正解、ということはないけれども、
おかしいなと感じたり、思ったりしたら、ただ流されるのではなくて
一歩立ち止まって、判断できる。
そんな人になっていきたいものだ。