気づきの伝道師 藤井一規です。
誰しも心配する心を持っているもの。
しかし、過剰な心配をしてしまう人も多いようです。
心配も度を過ぎれば健康を害しこそすれ、メリットを見出すことは難しくなります。
今日は、マーク・トウェインの言葉をきっかけに、心配する心について考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/12953/
この記事の目次
「私は人生の苦難を味わってきたが、実際に起きたのはほんの少しだった」
by マーク・トウェイン(米の作家、小説家)
ほんの少ししか起きていないのに、人生の苦難を味わってきたという、マーク。
私たちがいかに多くを恐れているかをよく示している。
心配とはどういうもので、どのようにしていけばよいのか、もうしばらく、考えていきたい。
<心配するのは本能>
生きのびるためには、命の危険を避ける必要がある。
そのためには、危険の存在をキャッチし、逃れていく必要がある。
そこで、高等な生物は実際には起きていなくても、
起きるかもしれないと想像し、心配するという能力を持った。
人間は、この想像力という能力が発達していて、
ありとあらゆることから、危険につながる可能性を発見して、
心配することができる。
多くを心配できるということは、
想像力が豊かだということでもある。
<心配が命を削る>
心配をすると、実際には起きてはいなくても、まるで本当に起きたかのような反応が起きる。
ときには、実際に起きたとき以上に、ストレスを感じ、辛さを体験したりする。
起きてしまえば、ある種開き直ったりすることもできる。
実際におきたことだけからの刺激に対応すればよい。
しかし、想像を膨らませて心配しているときは、
ありえないような強い刺激も感じ取ることができたりする。
それは心身を傷つけていく。
心配のあまりに、生きていくことが恐ろしくなったりもする。
ここまでくると、生き残るために有効なはずの心配する能力が、
心配することで、命を削っていくことになってしまう。
<正当な評価を>
適切な心配は、する価値がある。
多くの優れた経営者は、リスクを感じ取り、リスクに備えた対応ができている。
そこにあるリスクに気づくこと、そのリスクに備えたり、対処することは大切な能力。
しかし、起きる可能性はほとんどゼロにも関わらず、
あれもこれも一大事のように受け留めていては身がもたなくなる。
どのくらいの可能性で起きそうなのか、
起きたらどのくらいの影響があるのか、
冷静に見極めて対処していきたい。
心配するなら、心配のし甲斐があったと思いたいもの。