気づきの伝道師 藤井一規です。
つい誰かと比較してしまう。
でも、どうして比較してしまうのだろう?
周りを意識するとき、何が起きているのだろう?
今日は、石川 洋の言葉から考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/13037/
この記事の目次
「人と比較をしたら必ず力んで固くなる。それは自分の負けです」
by 石川 洋(作家、講師)
自分を誰かと比較するということは、何を意味するのだろう?
比較して得られるもの、失うものとは何だろう?
もう少し考えていく。
<比較したくなるのは>
比較すると、比較したポイントについての優劣がわかる。
別に比べる必要もないのに、つい比べてしまう癖を持っている人もいる。
まず、比較することを通して、自分の存在を確認しようとしていることが考えられる。
比べることで、優越している自分に価値を見出そうとする。
しかし、当然自分の方が劣っていることもあり、
自分にダメだしをすることにつながっていったりもする。
自分に自信があれば、特に他人と比べなくともいられるはず。
ということは、自分に自信がなく、なんらかの劣等感にさいなまれ、
比較に走っている可能性が高い。
<比較の結果>
比較しようとするポイントは、
普通のレベルと差のあるところ、目立って優れているところか、
劣っているところ、情けないところになっていく。
比較して自分の優越性を確認するとき、
相手の情けない部分を取り上げていることになりやすい。
それはマイナスな事象を取り上げていることになるし、
思いあがった感覚を持つことになりやすくなる。
誰かの優れたところを見つけて比較するときは、
却って自分の劣等感を深める結果になっていく。
すぐに比較に走るパターンを持つ人の場合、
どちらと言えば、自分にないもの、足りないものを見つけては
どうして自分は・・・という方向に行きやすい。
<一人一人違う>
周りを見渡してみれば、一人一人与えられているものが違うことがわかる。
それぞれ優れている面を持っているし、逆の面もあったりする。
あなたがうらやましい、と思っている人からあなたを見たら、
あなたのことをうらやましいと思っているかもしれない。
それぞれに違いがあるという多様性があることで、
役割分担され、全体としてうまくいっていたりする。
そうは言っても、どう考えても多くを与えられている人と、
そうでない人がいることに気がつくかもしれない。
すると、自分はなぜ恵まれていないのだろう?と考えるかもしれない。
しかし、多くを与えられているということは、
多くを成さなければならないということかもしれない。
多くを持つ人が充実感を持とうとしたら、持たない人と同じ結果では不十分ってことになる。
もともと一人一人、結果は違って当たり前なのだ。
<自分を認めよう>
人と比べようとするとき、今、取り組んでいる最中のことからは意識が離れていることになる。
当然、集中力も落ちていく。周りからも比べられれていると思ったりして、
普段できるはずのこともできなくなっていく。
他人と比べても、比べなくても結果は違って当たり前。
自分は自分、人は人でOKなのだ。
まずは自分を認めていきたいもの。
自分の取り組みたいこと、やりたいことを一生懸命やっていけばそれでいい。
同じ自分のやりたいことで、自分より優れている人をみるときには、
自分に取り入れたいことを見つけ出そうとするときにすればいい。
だから、もし比べるとしたら、過去の自分としていきたい。
他人と比べての優劣よりも、
自分は成長してきたか、これからどうなっていきたいのかが重要なのだ。