気づきの伝道師 藤井一規です。
自分の心は自分のもの。自分の身体は、やはり自分のもの。
と考えるかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか?
しばらく考えていきたい。
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この記事の目次
「心は我が物、身体は借り物。身体はいずれ天に返さなくてはならない」
by 山岡荘八 (歴史小説家)
自分の身体は、自分のものとして扱えるような気がしているけれど、
いつまでも健康で若々しい身体を!と望んでも、
永遠にとはいかない。
さらに考えいてく。
<身体は借り物>
この世に生まれ出るために、身体は大切な役割を果たしている。
身体があってこそ、私たちは存在できる。
座り、立ち、歩いたり、走ったり、そして休んだり。
周りと相互関係を持てるのも、身体があるから。
他者とは物理的に違うものだと、
あきらかに区別しやすい。
身体は自分のものとして、意識しやすい。
しかし、自分の思い通りにできるか?といえば、
そういうわけにはいかない。
細胞分裂の回数には上限があるらしく、
努力によって伸ばすことも可能だけれど、
いずれはどこかで死を迎えることになる。
生きている間、借りているという考え方には説得力がある。
<意識や心>
また、意識や心は、神経細胞のネットワークから
生まれてきているらしい。
脳だけでなく、心臓や、腸周辺にも神経ネットワークがあり、
記憶や意識、心があることはほぼ間違いないという。
心臓移植によって、心臓提供者の記憶や好みがもたらされるのは、
それほど珍しい話ではない。
もちろん、心や魂はいろいろな捉えかたがあるし、
前世、後世とか、輪廻転生という可能性もある。
しかし、この世では身体の神経細胞ネットワークとの関係は
切り離すことができないだろう。
<借り物だとしたら>
では、今の身体が借り物なのだとしたら、
返す、というのは自然。
自分のものなんだから、どう扱おうが勝手じゃん。
という発想からは離れる方向だ。
自分のもの以上に大切にしていきたくなる。
身体は自然から、宇宙から、預かった大切なもの。
もし、今、痛めてしまっているのなら、
ひどくならないように休ませ、回復させてあげたい。
<魂のゆりかご>
身体は、生まれ、育ち、成熟し、老いて、滅びていく。
心は自分のものと思っていても、身体なくしては存在できない。
魂が別物として存在しているのかどうかはわからないけれど、
身体をゆりかごとしてこの世に安定していられる。
身体は、借り物。
借りている間、この世に安定して存在できる。
そう考えると、生きている間、
もう少し、身体を大切に扱ってみたくなる。
もう少し、いたわってもよいかもしれない。