気づきの伝道師 藤井一規です。
素材は同じでも、いろいろな活かしかたがあります。
どんな活かされ方だとしても、
それぞれの素晴らしさがあるものです。
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この記事の目次
「琴になり下駄になるのも桐の運」
by 林忠崇(幕末の大名)
同じ桐の木であっても、
目立ち、長く使われるであろう琴になるものもあれば、
下駄として、日々削られながら、使わていくものもある。
どちらがあなたにとって好ましいだろう?
しばらく考えていく。
<琴になる>
桐も琴になれば、楽器として長く使われる可能性が高くなる。
袋に入れられて、大切に扱われるかもしれない。
おまけに、ときには舞台に出て、多くの人に注目されるものと
なれるかもしれない。
軽い桐は、持ち運ぶのに便利。
有り難いものとして扱われるだろう。
そんな風に目立つ人生となるかもしれない。
<下駄になる>
同じ桐であっても、下駄として使われるかもしれない。
足で踏まれ、地面で汚れるだろうし、
日々地面で削られ、次第に傷んでいくことは必定。
目立って取り上げられることもなく、
まさに地道。
桐は軽く、肌当たりも柔らかく、下駄として大変役に立つ。
日々下支えとして役に立っていく人生となるかもしれない。
<同じように育っても>
同じ環境で、同じように育ったとしても、
琴になる桐もあれば、
下駄となる桐もある。
どちらになるかは、必ずしも自分で選べる
というわけではなかったりする。
しかし、琴になれなかったからといって、失望する必要はない。
下駄としての人生にも意義がある。価値がある。
誰かの役に立てるって、素敵なこと。
毎日役立っているという感覚を得られることは素晴らしい。
<どちらになろうとも>
琴のようになるか、下駄のようになるかは、
わからないけれども、
どちらになろうとも、その良さを発揮していきたい。
あなたの特徴が活かすことができるに違いない。
もっている良さを遺憾なく発揮するようにしていきたい。
望み通りではなかったからと言って、
せっかくの良さを発揮しないのはもったいない。
<あなたにできること>
できることを目一杯やってみる。
あなたの良さが発揮されていれば、
それなら、こういう活躍の場があると、気づく人がいる。
琴だって、ただ使われずにしまってあるだけではもったいない。
下駄なんか嫌だといって、良さを発揮しないのはもったいない。
下駄は日々の暮らしに密着し、移動というとても大切なことを
達成させている。
どちらも素晴らしい姿であり、
価値のあることなのだ。