気づきの伝道師 藤井一規です。
私たちが強く反応するとき、
特に憎むような反応のときは
要注意だといわれたりします。
どういうことなのか、しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/14182/
この記事の目次
「我々がある人間を憎む場合、我々はただ彼の姿を借りて、我々の内部にある何者かを憎んでいるのである。自分自身の中にないものなんか、我々を興奮させはしないものだ」
by ヘルマン・ヘッセ (独のノーベル文学賞作家 )
憎むような反応が起きるときは、
それが自分の中にあるからだというヘッセ。
もう少し掘り下げていく。
<見たくないもの>
あなたが見たくないものとは何だろう?
汚いもの? 醜いもの?
いろいろとあげられるかもしれない。
怖いものかもしれません。
子供のころ、何かが潜んでいるのではと、
暗闇が怖かったりすることもある。
昔、噛みつかれてしまったから犬が嫌いになった人もいる。
様々あるけれど、憎むほどの反応を示すとなるとどうだろう?
<最も見たくないもの>
一番いやなものは、嫌いな自分自身の姿だ。
過去に道を誤ってしまった自分かもしれない。
情けなかった自分かもしれない。
もう二度としない!なりたくないと決めていた
あの自分の状態、あの姿を思い起こされたときだ。
自分の中にある、あの最悪な思いが蘇ってしまうから、
強烈に反応してしまったりする。
もし自分の中にないものだとしたら、
類推することはできても、それほどの強い反応をすることはできないだろう。
自分の中に、実感できるものとして存在するから、
強い拒絶を示したりする。
<経験を投影する私たち>
そう、私たちは目の前にいる人に、自分の経験を重ねたり、投影したりして生きている。
もし過去にあった嫌なこととそっくりなことがあったり、
特に自分の嫌な面と同じような行動をする人がいるとしたら、
大きな反応をすることだろう。
それを思い出すがゆえに、
他の人からしたら、大したことではなくっても、
過剰に反応したりするのだ。
誰にだって弱い面があり、
情けない面があったりする。
それを出すまいとして頑張っていたりする。
だからこそ、それを表に出している相手に反応してしまう。
<自分を知ろう>
もし、誰かに対して憎いっといった感情が湧いてきたとしたら、
それはなぜなのか、しばらく自分を探究してみたい。
きっと自分とって、とても大きな意味のあることがそこにはある。
憎しみの対象となった相手は、
自分と似た者だったりするのだ。
そうでなくとも、きっと大きな発見がある。