気づきの伝道師 藤井一規です。
世の中にはいろいろな人がいる。
好ましい人、素晴らしい人。
しかし、中には嫌な人、馬の合わない人もいる。
そういう人たちを切り捨てていけばよいのだろうか?
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/14572/
この記事の目次
「出会った人が先生である」
by 岩谷直治(実業家)
自分と合う人もいれば、合わない人もいる。
しかし、どの人もあなたの先生となりうる。
もう少し掘り下げていく。
<先生>
先生というと、学ぶべき何かを持っていたりして、
それを得る機会を与えてくれたりする。
例えば、優れた人は、たくさん持っていたりする。
自分がこれからしようとしていることをすでに体験し、
経験を持っている人も、学ぶべきことをもっている。
こういった人たちを先生と考えるのはわかりやすい。
しかし、そうでない人たちから何を学ぶことができるのだろう?
<自分と合わない人も>
世の中には、自分とは合わない人がいたりするもの。
そんなとき、なぜ合わないのと感じるのか、
よく考えてみる価値がある。
例えば、自分が大切にしていることを
ないがしろにするような人だったりする。
普段は気づかなくても、そういう人がいるから、
自分の信念や大切にしている価値観が明らかになったりする。
明らかになれば、それを改めて大切にするか、
それを変えていくかを考えるきっかけになる。
<自分より未熟な人も>
自分より経験が少なかったりする人も、
学びの機会をくれたりする。
自分にとっては当たり前で、特に考えなくてもできることが、
実は当たり前ではないことを教えてくれたりする。
また気づかなかった重要なポイントがあることを教えてくれたりする。
ときには、思いもつかなかった発想と出会うこともある。
特に、自分が誰かに伝えようとすることで、
改めて自分の中にあるものが整理されたりする。
そう、経験の少ない人との出会いも
学びの機会をくれるのだ。
<誰もが先生になる>
そう、出会ったどんな人も、先生となりうる。
まねをしたくなるようなことを教えてくれる人もいるし、
まねをしたくないことを気づかせてくれる人もいる。
自分の中にあるものに気づかせてくれたり、
自分の中になかったものに気づかせてくれたりする。
出会ったひとが先生になると思えば、
どなたもありがたい存在として受け留めることもできる。