気づきの伝道師 藤井一規です。
手持ちのものを持ち崩していくことってあります。
能力を出し尽くして、もはや打つ手はないと
思ったりすることも。。。
しかし、そこからが本番。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/15448/
この記事の目次
「すべては使い果たされたのか?よろしい。それなら、これから生き始めよう」
by アルベール・カミュ(フランスの小説家、劇作家、哲学者)
カミュの作品は、病気、戦争やテロ、全体主義などからくる「不条理」のもとで、
その中で、神に救いを求めるというよりは、泥臭く、生きる意味を求める姿を描いている。
この言葉の意味を
もうすこし、掘り下げていく。
<備える>
災害などの危機に備えて、生きていくために必要なものを備蓄するようになった。
震災や、今回の集中豪雨による洪水や土砂崩れなど、
備えることの重要性が叫ばれている。
まだまだこれから整備が必要ではあるけれど、
災害が起きたとき、支援を要請する仕組み、提供する仕組みもでき始めている。
しかし、想定の範囲を超えた災厄が起きることを
防ぐことは難しい。
あらゆる事態に備えるには、コストがかかりすぎるし、
どこかに限界がくる。
<備えを超えて>
備えていたことが限界を迎えるような事態に
巻き込まれてしまうことがある。
まずは、余裕の部分で対処していくが、
どこかで余裕を食いつぶしてしまうことになる。
余裕がなくなってしまうと、
慌ててしまったりする。
慌てて、何とかなればよいが、
どうしようもないこともある。
絶望したり、悲観したりしてしまうひともいるかもしれない。
<そこが始まり>
しかし、あらかじめ考えていたことが
限界を迎えた状況だからこそ、
真剣に、考え、事態に向き合うことができるかもしれない。
自分に何ができるのか?
どうしていきたいのか?
ひとりのチカラには限界があっても
協力し合えばできることがあるかもしれない。
あきらめ、絶望する前に、できることがきっとある。
それまでの安定からはずれてしまったからこそ、
生きていくことに、より真剣に取り組めるかもしれない。
簡単な答えはないかもしれないけれど、
悩みながら、苦労しながらの時間の中に、
大きな意味があるのかもしれない。
備えが尽きたとき、生き始めよう。
という言葉は心に迫るものがある。