気づきの伝道師 藤井一規です。
料理の才があれば、味にはうるさくなったりするもので、
せっかくの材料が活かされていなかったりすれば、
残念に思ったりするもの。
しかし、出されたものは褒めて食べるべしといわれます。
しばらく考えていきます。
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この記事の目次
「朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ」
by 伊達政宗(武将、戦国大名)
料理も得意であった、伊達政宗。
そして、もてなすことも良く知っていた。
であれば、うまくないものに対して、ひとこと言いたくなっただろう。
しかし、遺訓として、わざわざこのことに触れている。
もうしばらく掘り下げていく。
<もてなす>
オリンピック招致活動以来、
「おもてなし」という言葉が注目されるようになった。
しかし、「もてなす」とはどういうことなのだろう?
伊達政宗は、独眼竜として武人として名をはせただけではなく、
一流の文化人としての評価も高い。
茶人としても高いレベルにあった。
お茶というと、茶室でお菓子を食べ、お茶を飲む。
という印象を持つ人が多いけれど、
茶事がお茶であると言われる。
茶事では食事がふるまわれ、お酒も出されることが多い。
亭主が自ら作り、旬のものがさりげなく出されていく。
<日々の食事>
ここぞと「おもてなし」をするのであれば、
時間と意識をたくさん傾けて注ぎ込むことができる。
しかし、日々の食事はそうはいかないことを伊達政宗は知っていたのだろう。
ここ一番と頑張ることと、
毎朝毎晩続いていくこととは大きな違いがある。
もちろん、もっと工夫の余地があると、思っただろう。
それでも、作ってくれる人がいて、出していただけることは、
ものすごくありがたいこと。
その有難さをまず伝えたかったのだろう。
<感謝>
どのような態度で生きていくかで、
対応は変わっていくかもしれない。
この世にいる機会を与えられていると考え、
食事や、食べるものに恵まれていることを感謝することもできる。
尊大になってしまえば、
こんなまずいもの食べられるか!
という態度をとることもできる。
どちらの態度で生きるのかは、自分で決めることができるが、
伊達政宗は、前者でいなさいと遺しているのだ。
どういう選択をするかは、
自分で決めていけば良い。
ただ、知らず知らずに尊大になって、
自分の居場所を失ってしまうことは、避けていきたいものだ。