気づきの伝道師 藤井一規です。
成功したことも、失敗したことも、普通だったことも
すべてが経験となります。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/17493/
この記事の目次
「経験とは、誰もが自分の過ちにつける名前のことだ」
by オスカー・ワイルド(アイルランドの詩人、作家、劇作家)
失敗したこと、過ちを犯してしまったことを「経験」と呼ぶことを
皮肉った言葉になっている。
経験として捉えることで、どんな違いが生まれているか、
もうしばらく掘り下げていく。
<言葉の持つ影響>
「経験」という言葉には、マイナスなイメージはなく、
どちらかというと、経験者となっていくという、プラスの感覚が湧いてくる。
マイナスな経験をしたとき、それを、「失敗」「過ち」と呼んだなら、
言うたび、聞くたびに、ドキッとするような感覚があったりする。
してしまった当時の、
身が縮むような感覚が蘇ってきてしまったりする。
しかしそれは、起きてしまった事実に対して、
誰かの判断が加わったものだ。
事実そのものには、「成功や失敗」「良い悪い」は関係がない。
誰かがそれをどうとらえたか?という結果だ。
「経験」と呼べば事実として捉えていて、
「失敗」「過ち」と呼べば、経験をだれかが判断したものだ。
必要以上にストレスを感じる必要はないかもしれない。
<どんな経験も役に立つ>
何かをやらかしてしまったときは、反省の思いが湧いてくる。
そして、次回は同じことをしないような工夫を考えることができる。
再発を防ぐための効果的な施策を打つことで、
全体としての作業効率を上げることができたりする。
失敗や過ちをしたからこそ学ぶことができる。
もし、やらかしていなければ、
身に染みて大事さを感じることができない。
やらかしたからこそ、気づくことができたと言えるかもしれない。
また、うまくいった経験からも、うまくいかせるための工夫やヒントを
見つけることができたりする。
そう、どんな経験も学びを加えることができるものだ。
<経験に名前をつける>
過ちであっても、そこからの学びを加えて、経験として捉えていけば、
余計なストレスなく取り扱うことができたりする。
未来に向けての学びがあることで、
未来を信じ、楽しみにすることができる。
ただ単に「過ち」を「経験」と読み替えているだけでは、
ストレスは回避できるかもしれないが、
再び同じ過ちを繰り返してしまう可能性がある。
出来れば、気づき、学び、発見を加えた、「経験」として
扱っていきたいもの。