気づきの伝道師 藤井一規です。
人は生まれてきたとき、どんな人生になるかを見通すことはできません。
限りある人生を砂時計に例えたら、どんな風に捉えることができるのか、
しばらく考えていきます。
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http://shitsumon-alacarte.com/mental/17823/
この記事の目次
「人生の砂時計から砂が落ちるほどに、そこを通してよりはっきりと見えるようになる」
by ニッコロ・マキャヴェッリ(イタリアの政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官)
人生の砂時計があるとしたら、
砂が落ち切ったときに死が訪れるとしたらどうなるだろう。
時の経過とともにどんな変化があるのか、
もうしばらく掘り下げていく。
<砂時計>
人によって砂時計がどれだけの時間で落ち切るのかを
あらかじめ知ることはできない。
同じ大きさで穴の大きさや、砂が違っているのかもしれないし、
大きさそのものが違っているのかもしれないが、
比べることはできない。
比べても、取り換えることはできないし、
他人のものを羨んでも、自分にうれしいことは起きない。
比べることには意味がないのだ。
初めのうちは、砂時計に溜まっている砂の向こうの景色を見ることはできない。
ただ、時間の経過とともに、上の砂は減っていき、
下に砂が溜まって山ができていく。
<経験を重ねて>
何種類もの砂粒が積み重なって、
どんな時間を過ごしたかが溜まっていく。
同じに見える砂粒も、一粒一粒、
自分にとってどんな意味があるか全く違うもの。
その一粒が素晴らしいものなのか、
嫌なものなのかは、自分が決めている。
砂の山ができていくことは、
経験を積み重ねながら生きているということ。
今まで作ってきた山が素晴らしいもののほうが嬉しいけれど、
もはや動かない砂山となっている。
ただ、どう捉えるかはいつでも変えられるし、
これから落ちていく砂を、より素晴らしいものだと思えるようにすることは、
いつからだって始めることができる。
遅すぎるということはない。
<先を見る>
初めは砂が溜まっていて、その先を見通すことができなかったけれど、
砂が落ちていくと、先を見通すことができるようになる。
そこにどんなものが見えるのかは、人によって違うかもしれない。
ひょっとしたら、同じものが見えているけれど、
その捉え方が人によって違っているのかもしれないし、
焦点を当てるものがちがっているのかもしれないが、
人それぞれに気づくことがある。
なにかをしても、しなくても尽きるまで砂は落ちていく。
どうするかは、それぞれが決めることができる。