気づきの伝道師 藤井一規です。
人は何を恐れるものだろう?
命を失いかねないことはもちろんだが、
そうでないものだとしたら?
人生において、何を求めていけばいいかを
教えてくれるに違いありません。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/18626/
この記事の目次
「わたしはどんな泥棒も恐れません。でも、自分に何も残さずに生涯を終える、わたし自身を恐れるのです」
by キャサリン・アン・ポーター(米のジャーナリスト)
物をとっていこうとする泥棒を恐れる必要などない。
何か価値のあるものを残して生涯を終えたい。
そこには、”私”がいた意味があるからに違いない。
もうしばらく掘り下げていく。
<関わってきた物は膨大>
先日実家に戻ったとき、小さなころの写真、小中学校での文集や、成績表、
課題でつくったと思われる工作物が出てきた。
ああ、こんなもの作った! って懐かしく覚えていたものもあれば、
なんだか恥ずかしいようなものもたくさん。
それを肴に盛り上がった。
考えてみればこれまでの人生で
いろいろなものを作ったり、買ったり、誰かからいただいてきたりしてきた。
その量は相当なものになる。
今の家に引っ越すときも、
小型トラック一台じゃきかないくらいの量を捨ててきた。
付き合ってきた物は半端ない量になる。
<盗まれたら本当に困るもの>
考えてみると、泥棒が来て盗まれたら嫌な物、
迷惑な物はたくさんある。
しかし、盗まれても本当に困る物って
ほとんどないのではないだろうか?
他の物が有れば、代わりが利くからだ、
今使っている冷蔵庫が盗まれたら困るけれど、
別の冷蔵庫が手に入るなら、それほどの問題ではない。
真に”それ”でないといけないものって、
ほとんどないのではないか。
生きていく心のより所になっているような物は、
ごくわずかなはず。
だから泥棒を恐れる必要はないと言えているのだろう。
<真に恐れるべきこと>
では、恐れるべきこととは何だろう?
人生を想うとき、自分が生きたって証を何か残したいと思うという。
なぜなら、自分がこの世に生まれてきた意味があるって感じられるからだ。
自分がこの世に生まれてきた意味を、いたという足跡を
何か遺したいのだ。
単に既に存在していて、手にいれた物ではなく、
自分がいたから生まれてきたモノ、誰かのために役に立ったモノを遺したい。
もちろん、それは記録に残るモノ、形に残るモノである必要はない。
誰かの心に遺るモノ、誰かに望ましい影響を与えることも
自分が生まれてきた意味があったってこと。
自分が人生で何を遺していくのか、
考えてみてもいい。