気づきの伝道師 藤井一規です。
どうして自分にばかり大変なことがやってくるのだろう?
そんなことを感じている人がいるかもしれません。
しかし、出来ない人にはやってこないものです。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
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この記事の目次
「重荷とは、それを運ぶ強さを備えたものにふさわしい」
by マーガレット・ミッチェル(米の小説家)
重荷を運べるのは、それだけのチカラを持っているから。
運びたい荷物があるのなら、運ぶ能力のない人に与えても、
運ばれることを期待することは難しい。
その人の能力とやってくるものには関係がありそう。
そして、出来る能力は伸ばしていきたい。
自分の存在意義が増していくことになる。
もうしばらく掘り下げていく。
<能力に合わせた教育>
教育界では、能力別教育が盛んに言われるようになった。
大学入学に関してみると、
飛び級で早期から大学教育を受けられる制度、
東京大学では学力以外のディスカッションや面接での合格、
京都大学では、高校時代での活動内容や、学ぶ意欲での合格、
などなど、特色を持った制度が設けられつつある。
画一的な教育では埋もれしてしまっていた人材を育てようという試みは、
あらゆる年齢層、地域で行われつつある。
スポーツや芸術の世界においても。
<人はそれぞれ違う特性がある>
人にはそれぞれ異なる特性がある。
その特性を活かすことを考えるようになりつつある。
全てを画一的に伸ばそうとすることが、
平等であるとして、短所や、不得意なことに注目して、
苦しみながら進んでいくよりは、
誰にもある、長所や、得意なところを
公平に伸ばしてしていくほうが効率的だったり、
飛びぬけた者を育てることができたりする。
と言っても、今の時点では、一部の何かに飛びぬけた者だけを
取り上げている状態に近いかもしれない。
それでも、以前よりは個別の能力に注目されるようになってきたと言える。
<自分の存在意義>
自分の長所が発揮されて、成果を出したり、
認められると、自分の存在意義を感じられる。
自分の居場所、自分のいる意味を感じられることは
とても素晴らしいことだ。
しかし、あるとき、その長所が発揮できなくなるようなことが起きたとき、
たとえばスポーツ選手がケガをして、もはや活躍できなくなったなどの事態が起きたとき、
自分の価値を感じられなくなってしまうことがある。
それに、そもそも突き抜けたレベルに到達できる人はほんの一握り。
その他大勢が、文字通り大多数なのが事実。
世の中はそう単純ではないようだ。
<自分だからこそ>
ただ、自分が経験し、感じたこと、学んだことは
自分だけのもの。
同じ経験をした人が何人もいたとしても、
全く同じ受け留めをした人はいないと言っていい。
一流にはなれなかった人は、
一流の、一流になれなかった人だし、
一流であり続けられなかった人は
一流の、一流であり続けられなかった人だと言える。
こんな自分だからこそ得られたものがきっとある。
それは、後輩たちの大きな学びになるにちがいない。
それだけでも生きて経験してきた価値がある。
誰もが自分ならではをもっているのだから。