気づきの伝道師 藤井一規です。
敵対する人がひどいことを言ったりするよりも
印象に残ることがあると言います。
それは、ピンチになったとき、友人が味方してくれなかったことです。
どうしてなのか、
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/18716/
この記事の目次
「結局、我々は敵の言葉ではなく友人の沈黙を覚えているものなのだ」
by マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(米の牧師)
敵対する相手が、キツイことをいってくるのは、
いわば当たりまえ。
しかし、味方だと思っていた人が、
肝心なときに味方になってっくれなかった、
応援してくれなかったりすると、
その方が印象に残るもの。
もうしばらく掘り下げていく。
<想像力>
私たちには想像力があり、起きることを期待することができる。
敵がいるとすれば、相手は敵対することを言ったり
したりすることを想像することができる。
想像したり、期待していることが起きることに対しては、
私たちはある程度、準備ができていると言える。
だから、嫌なことをされるのはやはり嫌だけれど、
それが敵だとしたら、ある程度納得することができる。
ある意味、それが起きることが期待になっている。
<期待に反すると>
ところが、容易に想像できて、実現するだろうと
期待していることが裏切られると、
強い印象をもつ出来事になる。
味方だと思っていた友人が、肝心な時に味方をしてくれなかったりすると、
ショックを伴ったりする。
ことに、ここぞというときに押し黙って見殺しにされてしまった、
という印象をもつと、それは後々にまで響きかねない。
敵対する相手がひどいことを言うよりも、
遥かに深い傷になってしまったりするのだ。
反対に、敵対する人だと思っていた相手が、
相手に不利なことになるにもかかわらず、自分の弁護を買って出てくれたりすると
ビックリしたりする。
敵だと思いこんでいたけれど、ひょっとすると
これまでも正当な意見を言っていただけなのかもしれない。
<真の友人>
こうして考えてみると、真の友人になるのには、
共に傷つく覚悟がいるのかもしれない。
好調なときに、近寄ってくるだけの人だと、
不調になれば去っていってしまう。
困難な状況にあるときに、
損得なしに手を差し伸べてくれる人。
信じてくれる人だ。
こうした友人を持っていたいもの。