気づきの伝道師 藤井一規です。
誰もが自由になれる可能性を持ち、
自由でありたいと思いつつも、
結果いろいろな制限を抱えていたりします。
自由と束縛との関係について、
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/18852/
この記事の目次
「人間は生まれながらにして自由である。しかし、いたるところで鎖につながれている。自分こそが主人だと思っている人も、実は奴隷であることに変わりはない」
by ジャン=ジャック・ルソー(仏の哲学者、作家、作曲家)
自由については、自由には責任が伴うものとして
何度か書いてきた。
今日は、自由だから束縛を自らに課していることについて
もうしばらく掘り下げていく。
<最大の自由?>
人が最大の自由を発揮できるのは、
生まれてきたときと言われることがある。
本能のままに、乳を求め、不快を訴える。
親はそんな天真爛漫な赤ちゃんに振り回されることになる。
特に母親は、睡眠不足になり、疲れを溜めてしまうことになったりする
しかし、赤ちゃんにとっては必死だ。
不快を放置しておけば、身体を痛めてしまうことになる。
もし、乳が与えられなければ、死んでしまう。
ただおとなしく、自分に都合のいいことがやってくるのを
待っていては、命の危険がある。
赤ちゃんは生きていこうとしており、
自由を意識していない。
自由は、命の危険のないところで考え始めるもの。
選択の余地がある状態で、意識できるものと言えそうだ。
<束縛の選択>
自由か束縛かは、
自ら選択できるもの。
その選択を自由にすることはできるが、
その結果、なんらかの制限や束縛を受けることになる。
自分の望む何かに時間を注ぐことを決定するという選択は、
そこに注ぐことに自ら自分を定めるという制限をつくり出している。
もし、これを取り組もうと決めなかったり、
やり抜こうと決めないとしたら
何も始められなかったり、中途半端になって、
何も生み出せないままになってしまう可能性が高くなる。
自由であると言いながらも、
制限や束縛は常に共に有ると言っていい。
自分が望んだ選択ができているか、そうでないかの違いがそこにはある。
<望む束縛>
束縛ときくと、鎖のような嫌なもの、
望まないもののように感じてしまいがちだけれど、
私たちは望ましい束縛の選択を続けながら生きている。
自由だからといって、一切の束縛から逃れてばかりいることは、
自分のしていることに責任を取らないことにつながっていく。
自由は束縛がないことではなく、
どんな束縛を自ら定めていくかだと言えそうだ。
何を選択していくか、よく考えていきたい。