気づきの伝道師 藤井一規です。
人数が多いほうが良いところと、
人数が少ないほうが良いところがあったりします。
しばらく考えていきます。
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「多勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に働く」
by 徳川家康(武将、戦国大名、江戸幕府初代征夷大将軍)
多くの仲間がいると、勢いが生まれる。
少数の仲間であれば、真に一丸となることができる。
どちらにも良さがあり、弱点がある。
もうしばらく考えていく。
<多勢>
家康が生まれ育ち、生き抜いてきた戦国時代は、
軍の強さは、人数の多さから考えられた。
戦国時代の初期は、まず一対一で戦うことが多かった。
だから、人数が多ければ、当然、相手一人に複数で襲い掛かることができる。
やはり人数差が大きい状況では、
劣勢をひっくり返すことは難しい。
敵の武将を寝返らせて数で圧倒する、という作戦はよく用いられた。
少数であれば、勝つための作戦が必要だった。
<少数>
家康は、敗戦から学んだと言われる。
有名なもののひとつが、三方ヶ原で武田信玄と戦ったもの。
味方は最大でも1万5千に対し、武田側は2万2千と倍近くという圧倒的不利。
しかし、立たなければ、手を組んでいた織田信長はじめ、
だれからも信頼を失ってしまうという状況。
立ちたくなくても立たないわけにはいかなかった。
少数であるならば、心を一つにし、立ち回らなければならない。
家康はそのつもりだったと思われるが、当時はまだ人心は家康一色に固まってはいなかった。
そして、武骨な部下が武田軍からの挑発に乗ってしまった。
バラバラな状態で少数が多数に勝てるはずがなかった。
当時、しっかりとした基盤をもてていなかった家康に、
武田信玄の老獪な戦いぶりは強烈だった。
<一つにまとまる>
軍勢が大きくなっていくと、
勢いに任せ、深く考えずに動きがちになることを知ったのは大きかった。
三方ヶ原の戦いでも、当初武田軍は浜松を攻めずに、かすめて西に向かう様子を見せた。
家康軍は、武田軍を後ろから、追いかける形となった。
おそらく家康は、少しだけやっつけて、義理を果たしたと示したいと考えただろう。
しかし、追いかけてやっつけようという勢いで進んでいたところ、
武田軍は、いきなり向きを変えてきた。
武田側の挑発に乗ってしまったのは、
追いかける勢いがついていたことも一因だ。
前のめりになっていて、はやる心を止めにくかった。
そして多勢になればなるほど、勢いに任せてしまうことが起きやすい。
多勢が一つにまとまる。この姿を求めることが
家康が天下統一を果たす下地になったと思われる。