気づきの伝道師 藤井一規です。
生きていくうえで、ゆとりがあることは大切なことです。
一方、ゆとり教育は失敗に終わったという評価だけが残ってしまいました。
何が問題だったのか、よく反省されているのでしょうか?
ゆとりについて、しばらく考えていきます。
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この記事の目次
「合理化はゆとりや遊びの空間を消して、むしろ人を遠ざけることになります」
by 手塚治虫(漫画家、アニメーター、医学博士)
世の中は生産性を上げる方向に進んでいきます。
合理的なほうが生産性は上がるのだけれど、
どうも人間は合理的なだけの中にはいられないよう。
もうしばらく考えていく。
<合理化と無機化>
例えば都市計画によって、
入り組んだ町並みは作り変えられ、広い道路ができたりする。
すると、街はきれいになり、車がスイスイ走ることができ、
移動の効率はあがり、合理的になっていく。
エスカレーションレータや動く歩道ができて便利になったかもしれない。
しかし、整然としすぎると、
ちょっと立ち止まってみようとしたら、周りを妨害するような状態になってしまう。
道が広く、車がどんどん走っていれば、
ちょっと向こう側にわたってみようとしても渡りにくくなる。
そうした情景を、外から眺めてみると、
そこにいる人たちも、なんだか無機的、機械的になってしまっている。
合理化は人間的なものを奪ってしまう傾向を持っている。
<ゆとりか怠惰か>
詰め込み過ぎ教育はよくないのでは?
というところから、ゆとり教育が導入された。
確かにゆとりは必要だ。
コンパクト、最小限が良いからと言って、詰め込めばいいというものではない。
合理的に過ぎると、無機的、機械的になってしまうのは述べた通り。
しかし、ゆとりという名前のもとに、
怠惰に流れてしまうだけの内容のものが多かった。
ゆとりには、怠惰に流れてしまうゆとりと、
決まりきったことからは外れても、好奇心や興味に基づいて、
わくわくしながら熱心に取り組むゆとりとがあって、
この二つは全く違う。
残念ながら、後者の取り組みが大切だと、十分認識されないままになってしまった。
<ゆとりを持とう>
私たちはもっと、自分の好奇心や興味を刺激するものに
時間を注ぎ、熱中してもいいのではないだろうか?
やりたいことが見つからない。
という現象が起きる原因のひとつは、
日常の中で、わくわくするものに取り組めていないからだ。
どんなものでも興味をもって、やってみたら、
もっと知りたくなること、深めてみたいことが出てきたりする。
自分のスイッチが入れば、誰かに強制されなくなって
自ら深め、高めていくエネルギーが湧いてくる。
自分にとって、どんなゆとりが大切なのか、考えてみる価値はきっとある。